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武蔵最後の決闘相手−伊勢の剣豪 雲林院光成


新当流兵法伝書(個人蔵)

新当流兵法伝書(個人蔵)


 巌流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘はあまりにも有名であるが、その武蔵と戦った中に、本県域出身の剣豪のいたことは、恐らくほとんど知られていないのではなかろうか。彼の名を、雲林院(うじい)弥四郎光成という。
 光成の子孫である熊本藩士岩尾幾平太が1807(文化4)年に記した由緒書によると、出自は、伊勢国安濃郡を拠点として活躍した長野工藤氏一族雲林院氏である。そして、光成の父雲林院光秀は、塚原卜伝より新当流を伝授された、当時高名な剣豪でもあった。九州の戦国大名大友宗麟の子の義統(よしむね)や、織田信長の子で伊勢神戸氏を継承した信孝も、彼に新当流を学んでいたことが、残された史料から明らかとなる。当時光秀は「松軒」と号していた。
  ところで、由緒書では雲林院光秀は「出羽守」を称したとしているが、1566(永禄9)年3月10日付けの新当流兵法伝授起請文は「雲林院弥四郎入道」宛てになっており、実際は、光成と同じく「弥四郎」を号していたことがわかる。そして、この起請文を提出した侏田(疋田)豊五郎景兼(かげかね)もまた、著名な剣豪である。
 疋田景兼は、同じく本県域出身の愛洲移香(いこう)の子宗通より陰流(いんりゅう)を学び新影流を開いた上泉信綱の甥と言われ、彼自身、疋田流の開祖として知られる。永禄年間当時、上泉信綱は京都周辺で活動しており、疋田景兼もそれに同行していたのではなかろうか。いずれにしろ疋田流開祖の疋田景兼が、雲林院光秀より新当流兵法を学んでいた事実は興味深い。
 光成は、父から新当流兵法を伝授され、さらに一時期、柳生宗矩のもとにも身を寄せており、柳生新影流をも学んでいたようである。1621(元和7)年、宗矩の弟子村田弥三より、新影流の目録等を授けられている。
 その後、大和郡山藩主松平下総守忠明に招かれ、しばらくの間郡山に留まっている。熊本藩主細川忠利に拝謁したのは、1632(寛永9)年。そして、翌寛永10年4月に熊本に赴いている。
 その時、熊本藩より柳生宗矩に対し、雲林院光成の人物照会がなされた。その返書の中で宗矩は、「弥四郎は、伊勢の雲林院氏に連なる由緒ある人物である。親(光秀)は卜伝の弟子で、上方では覚源院様と伊勢国司、そしてこの親の五、六人ほどしかおらず、弥四郎はそのすべてを伝授されている。」とし、さらに槍術については、「当世にも、あまりこれあるまじき」者と記している。
 西国における卜伝の弟子としては、伊勢国司北畠具教と、将軍足利義輝が知られており、この書状より、図らずもそれが単なる伝承でないことが明らかとなった。なお、足利義輝の法号は「光源院」であり、宗矩書状で「覚源院」とするのは誤記であろう。
 宮本武蔵との試合については、武蔵の死後にまとめられた『二天記』に記される。それによると、藩主細川忠利の御前で、両者木刀を以て闘っている。武蔵が細川忠利に招かれたのは寛永17年であることから、試合はこのころのことと見られる。時に、宮本武蔵は57歳、雲林院光成は60歳。そして、これが武蔵最後の決闘となったという。
 雲林院弥四郎光成はその後、熊本藩の客分のまま、1669(寛文9)年9月、89歳で死去した。

(県史編さんグループ 小林秀)

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