第113話 「斎王の食事」展によせて−平安京の海の魚
もうすぐ八月も終わり、ということは、企画展『斎宮展示室V 斎王の食事』も終わってしまうのですが、その準備段階で気づいた話を少し。
〇平安時代の貴族は新鮮な海の魚を食べていた!?
京の都がある山城(山背)国にはいうまでもなく海がありません。だから京都では若狭の塩サバが名物で、鯖街道などという道もあったわけなんですが。
『延喜式』の「宮内省式」に「諸国例貢御贄」という食べ物リストがあります。諸国から「贄」、つまり旬のものなどの名産を天皇の食べるものとして出す、秋に納める「調」とは別の形の税で、律令制より古い形の税だと考えられています。
その「山城国」に「氷魚」と「鱸」が見られます。つまり京のある山城国はこれらを贄として出していたのです。氷魚とは、生まれたばかりのアユの稚魚です。アユは「年魚」といわれ、秋の終わりころ下流の河口近くで産卵して一生を終える短命な魚です。そして下流で生まれた稚魚は海に出て、10pくらいになると川を遡上し、上流に定着して縄張りを作ります。この段階のアユはいわば小さいアユの形をしていて、稚鮎と呼ばれます。ところが生まれてすぐのアユは鱗ができる前で透明に見え、一見してアユとはわからない姿をしていて、これを『万葉集』以来「氷魚(ひお)」といいました。
しかし氷魚は生まれてすぐに海に出てしまうので、ふつうはなかなか人目にはふれません。ところが琵琶湖には、湖で生まれ湖で大きくなるアユがいるので、氷魚が獲れるわけです。そのため、氷魚は現在では滋賀県の名産と言われています。しかし平安時代には氷魚が山城国の名産になっているのです。これはどういうことでしょう。
この氷魚が海に下りるのであれば、河口に近い摂津国でも氷魚を獲っているはずですが、それは見られません。とすればこの氷魚は、琵琶湖から下り、木津川と宇治川と桂川と賀茂川が合流して淀川になる所に近代まであった巨大な遊水地「巨椋池」あたりに住み着いて大きくなり、再び遡上したのではないかという推測ができます。つまり巨椋池はアユの育つ池で、だから氷魚がとれたのではないかなあと思うわけです。
しかし「鱸」の場合はそう簡単にいきません。いうまでもなくスズキはシーバスの名でも知られるように、海の魚であり、川には棲まないのです。だからこの記述を見た時には目が点になりました。しかしインターネット時代は便利なもので、これに関係する記述を発見しました。「国土交通省 近畿地方整備局 淀川ダム総合管理事務所」のホームページに掲載されている「天ケ瀬ダムにおける連続性回復への取り組み」(renzokuseikaifuku.pdf (mlit.go.jp)というパンフレットです。
これによると、江戸時代〜明治時代(大峯ダム=1924年に造られた宇治川最初のダム、建設前)には「海産のアユやウナギ、ボラなどの魚類が、河口から琵琶湖の間を行き来していたと考えられます」とありました。
何だって・・・!?
そして、大正時代〜昭和時代(大峯ダム建設後)には「大峯ダム下流でボラ、スズキの海水魚、アユ、ウナギ等の回遊魚が確認されています」とあります。
スズキ出てきたよ・・・。
スズキやボラは汽水域でも生きられる魚だそうです。私も、ボラが河口に近い大阪市内や松江市内、伊勢市内などの川で跳ねているのを見たことがあります。そしてボラやスズキは、汽水域から少しずつ遡上していくと、淡水でも暮らせるのだそうです。とすれば、現在も標高10m以下の巨椋池干拓地で、堰などがなかった時代には、スズキやボラが巨椋池周辺に棲んでいた可能性は極めて高いと思います。山城国が贄として出していた「鱸」はこういう魚ではなかったかと思います。
つまり平安時代の京の人も、タイやカツオは無理でも、スズキやボラなら海の魚は食べられたのではないか、という話なわけです。
〇斎宮で食べていた魚は?
さて、では斎宮の場合はどうか。斎宮はもちろん海に近いので、海の魚はふんだんに食べられたはずで、イワシ・カレイ・キス・イカナゴ・アナゴ・マゴチなどが現在もよく獲れる魚として知られています。当時でもこれらは食膳に上がる魚だったのかなと思います。松阪市の南山遺跡では、「舎」と線刻した土錘(地引網などを沈める錘)が見つかっており、斎宮の舎人司を意味するのではないかと考えられます。舎人司は斎宮寮の召使や事務・雑用全般を任される役所ですが、その長には「磯部」氏や「麻績」氏など、地域有力氏族が就いていたことが知られています。つまり地域の有力者が斎宮の下支えとして舎人司を掌握し、上質の網を管理し、網元的になっていたという感じがするわけです。
ここまではこれまでも思っていたことです。そして今回気づいたのは、伊勢公卿勅使の旅行記録に、雲出川や櫛田川など斎宮近くの大きい川では、潮干を待って渡るとして、船や橋の記述がほとんどないことです。これは大河の河口域が土砂の堆積で浅くなり、徒歩や馬で渡るというイメージで語られていたようです。そして現在の櫛田川やその分流の祓川でも、河口から2〜3kmは感潮帯、つまり汽水域のようで、櫛田川ではボラがたくさんいて、シーバスも釣果として出ています。網で獲る魚は海だけとは限らないようです。
つまり斎宮でも櫛田川河口域では鱸は獲れたんだろうなぁと思うのです。平安時代の斎宮の食は、海(タイとかイワシとか)、汽水域(スズキとか)、川(コイとか)、そして志摩のような外洋と(アワビとかカツオとか)、色々な新鮮な海産物で支えられていたように思うのです。
(2024/08/27 学芸普及課 榎村寛之)
榎村寛之