第112話 斎宮寮の長官の条件とは
斎宮千話一話
斎宮寮の長官の条件とは?
『官職秘抄』という、鎌倉時代初期の1200年にできた本がありまして。
これは、「国家公務員の偉いさんって具体的にはどんな人がなれるのですか」というハウツー本なのです。例えば大臣(左右大臣と内大臣)は、「摂政関白以外で大納言にして近衛大将で、坊官(春宮坊のトップ、つまり次期天皇の側近)の経験者で、一世源氏、二世の王、政治をしている大臣の子息、皇后の父、今の天皇の外舅(一般の妃の父)などから任ずる」としています。ごく限られたルートしかないということがわかりますね(ちなみに藤原道長の異母兄、藤原道綱は、「大臣になりたい」と言って藤原実資に却下されたという記録が実資の日記『小右記』に出てきますが、大納言・右近衛大将・東宮傅を兼任していて、左大臣藤原兼家の子なので、一応条件は満たしていました)。少し下の方に行くと、たとえば公卿の末端の参議の場合、七つのルートがあり、蔵人頭、左右大弁(公文書作成責任者)、近衛中将、左中弁でキャリアの長い者、式部大輔(宮廷行事進行役の実質トップ)、天皇の先生、七か国の受領を務めた者、そして三位で職務がない者も入ります。
それはさておき。興味深いのは斎宮寮です。
斎宮寮令外官
頭 しかるべき公達をこれに任ず。もしその人無くば、諸大夫といえども人を撰ばれよ。
もし六位たりといえども、直に従五位下に載せるよし。
(適任の公達を任命する。もしそういう人がいなければ、諸大夫であっても人を選ぶこと。)
助 権
元はしかるべき輩をこれに任ず。近代は凡下に列する輩の官となる。
(元は相応の人を選んだが、この頃は六位クラスの人を任命する官になっている)
允 大少
元は侍官なり。近代は下列の者の職となる
(元は六位クラスの官職だったが、この頃はもっと下の人の職になっている)
属 大少
元は諸司の二分などをこれに任ず。近代は下列の者となる
(元は諸司の二等官を転任させる、ということか? 近代はもっと下の人になる)。
被官諸司
以上はみな、本官の請に随いてこれを任ず
(十二司は斎宮寮の官人の要請によって任命する)
それぞれに面白いのですが、興味深いのは斎宮頭の選考条件です。斎宮頭は「公達」なのです。この時代に公達は原則として四位以上の貴族、またはそこまで上がることができる、大臣級上級貴族の子弟のことで、しかも上級貴族は、忠平流藤原氏(つまり摂関家とその傍流の藤原氏)や一部の源氏に限られていました。
え、斎宮頭は奈良時代の神亀五年(728)からこの方従五位相当じゃないの?
さして、この時代の感覚では、大夫と呼ばれるのが五位ですから「、四位級の家に人がいなければ五位」、ということになっています。
つまり、
頭 ふさわしい公達をこの役に任命する。もしそういう人がいなければ、五位でもいいので人をえらぶこと。もし六位だとしても、すぐに従五位下に昇進させること。
ほほう・・・。
じつはこの時代の斎宮頭は資料が少なく、どういう人がなっているのか意外に知られていないのですが、11世紀には、平さん(正五位下平雅康)、橘さん(橘兼懐、伊勢守と兼務?)や大中臣さん(大中臣兼興)などが斎宮頭になっていて、彼らは公達とはいえない階層の貴族です。
ところが、例えば『公卿補任』によると、承元四年(1210)に従三位になった藤原資頼という貴族は建久四年(1193)に従四位下土佐守で斎宮頭を兼務しています。彼は大炊御門流藤原氏、つまり藤原頼通の子の摂政関白師実の子孫で、摂関家傍流にあたります。なるほど四位の斎宮頭はたしかにいるのです。では、このルールはどこまで上がるのでしょう。公家日記では斎宮頭くらいの人間は名前しか記されないことが多く、姓名を判断するのがかなり難しいのですが、今は名前からのウェブ検索もかなり進んでいます。
そこで。次に『玉葉』の承安二年(1172)条に出てくる「忠重」について調べてみました。するとこの時代に「藤原忠重」でひっかかった人がいました。それは、長寛年間(1162-1164)に起こった、いわゆる長寛勘文事件(甲斐国、今の山梨県で国守が熊野三山の荘園の税を奪い、明法博士が「熊野は伊勢と同体なので伊勢神宮への不敬罪と同等の絞刑が妥当」という勧申=専門家による意見書を出したことから、伊勢神宮と熊野大社は同体かどうかと多くの専門家や知識人に意見を出させ、最終的に忠重は流罪になったという事件)で熊野三山から訴えられた甲斐守藤原忠重という人物です。
この人の名前は知っていましたが、甲斐守でその後に流罪になっているので、深く考えたこともなかったのですが、どうやら藤原道兼、つまり道長の兄の七日関白道兼の子孫でした。甲斐守なのでおそらく五位相当、しかし摂関家傍流なので、「公達」の端くれらしいのです。実際、兄の藤原資隆は従四位下少納言に至っているので、公達の条件はかろうじてクリアできたようです。そして同時代の貴族内では同姓同名は原則として避けています。
そのように考えれば、甲斐守藤原忠重もまた「公達」になれる藤原氏の出身で、流罪が解けて復帰した後、その血筋から斎宮頭になっていたという可能性があるわけです。
とすればこの藤原忠重という人は、何と云うか、運の悪い人生を送ったことになります。実は彼は、高倉朝の斎王、惇子内親王が斎宮で急死した時の斎宮頭で、『玉葉』にでてくるのも、都に呼びつけられた記事に出てくるからなのです。
甲斐守としての忠重は遥任、つまり直接赴任はしなかったようなのですが、斎宮へは下向していたようで、惇子内親王の急逝の後始末をして帰京したということになります。斎宮頭としては間の悪い話で、これでは四位に進めたかどうか、極めて疑わしいところです。
つまり彼の人生は、伊勢神宮の関係に振り回されたのですね。
『官職秘抄』はあくまで建前で、五位から採用する場合も書いているので、なかなかその通りに人選が進んでいるとは思いにくいのですが、平安末期といえば、源平合戦の時期にあたり、惇子内親王の急死以降、高倉朝から安徳朝の十五年にわたり伊勢では斎王が不在だったことが知られています。つまり文献史学からも、あるいは発掘調査の成果からも、斎宮の衰退期と理解されているわけです。
しかしその一方で、斎宮頭が公達から採る、つまり斎宮頭の地位が高くなっているように見えるのは、なかなか興味深いことなのです。
(2024/8/16 学芸普及課 榎村寛之)
榎村寛之