第111話  『源氏物語』「賢木」の野宮と『伊勢物語』第七十一段「神の斎垣」の斎宮と

『源氏物語』「賢木」の野宮と『伊勢物語』第七十一段「神の斎垣」の斎宮と

じつは、『野宮図』と「神の斎垣」には決定的な違いがあります。それは垣と鳥居の形です。嵯峨本以来「神の斎垣」は、楯の板を並べた垣と色を塗られた明神鳥居という一番普通の鳥居の組み合わせ(彩色ものではお稲荷さんのように全て朱色)なのに対して、『野宮図』は生木を使う黒木の鳥居と柴を組んで立てた小柴垣の組み合わせなのです。
 これは、「神の斎垣」の図を黒木の鳥居と小柴垣に替えると「野宮図」になる、ということでもあります。
 斎王が伊勢に下る前に一年だけ籠る野宮をイメージ付けているのは、やはり『源氏物語』の「賢木」帖だと思われます。本文に記された野宮の記述には「物はかなげなる小柴を大垣にして」とか、「黒木の鳥居どもは、さすがに、神々しく見渡されて」などの表現があり、それらが「いと、かりそめなめり」、つまり 大変仮の造りめいている、としているのです。
なるほど、とは思うのですが、「賢木」帖には、「かはらぬ色をしるべにてこそ、「斎垣も越え」侍りにけり」(榊の葉のように変わらない色を案内にして斎垣も越えてきたのです)とあり、「神の斎垣」を下敷きにしていると考えられるのです。
つまり「賢木」の野宮は『伊勢物語』の神の斎垣の派生作品なのに、本家よりずっと有名になったというわけです。源氏ブランド恐るべし、なのです。
しかし、『源氏物語』と『野宮図』の間には600年以上の時代の開きがあります。そんな時間を越えて、「野宮といえば黒木鳥居と小柴垣」のイメージがうけつがれたのはなぜなのでしょう。じつはこの間に、野宮のイメージをより一般にひろめる機会がありました。それは能(謡曲)『野宮』の上演です。この能は、諸国巡礼する僧侶が野宮跡で六条御息所の亡霊と出会い、車争いの話を聞かされる、という内容なのですが、その中でも
 われこの森に来てみれば、黒木の鳥居小柴垣、昔にかはらぬ有様なり
と、あり、ここで二つのアイテムが野宮を代表するものとされているのです。そし舞台装置でも黒木鳥居が使われます。
『野宮』は金春禅竹(1405〜1470?)の作といわれ、室町時代中期(足利義満後期から応仁の乱の始まった頃まで)の作とされるので、ここで語られた野宮イメージは室町時代の「常識」の範囲で、それが芸能とともに広がっていったと考えられます。それが室町時代にはできていた「神の斎垣」の絵と結びついたのではないでしょうか。
 おそらく黒木の鳥居と小柴垣で「神の斎垣」を描くと「野宮」になるというひらめきの背景には、能による『源氏物語』のいわば2.5次元化(舞台化)があったのでしょう。
 しかし、「神の斎垣」と『野宮図』には、じつは大変大きな違いがあるのかもしれません。「神の斎垣」に描かれている女房風の女性は「すきごといひける女(伊勢物語の中世注釈書では「すきこ」という名が与えられる)ですが、『野宮図』の女性は、能から考えると六条御息所ではないかと考えられるからです。
 能『野宮』では、野宮に永遠にたたずむ六条御息所が出てきます。そう考えると、
あ、『野宮図』はちょっと怖いかも。  
                           (2024/5/15 学芸普及課 榎村寛之)

榎村寛之

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