第99話  斎宮の「保」〜斎宮と現代をつなぐ史料

斎宮千話一話99 斎宮の「保」〜斎宮と現代をつなぐ史料

『国立歴史民俗博物館所蔵「大神宮法楽寺文書紛失記」』という文献があります。千葉県にある国立歴史民俗博物館所蔵の文献で、伊勢神宮近辺にあった法楽寺という中世寺院に関わり、康永三年(1344)に書かれたものです。斎宮歴史博物館では平成18年度特別展「斎王のおひざもと−斎宮をめぐる地域事情―」でご紹介したことがあります。
その明和町関係部分が『明和町史』「史料編 第二巻 文書史料」(明和町史編さん委員会 2006年)のP50に掲載されておりまして。
 そこに
一、 田地壱段
  在多気郡斎宮艮保内野田
 四至 東限久留并人々領田  南限常乙荒野并井
    西限同類地字上坐頭領 北限他領田小畔
という記述があることが当時の図録で紹介されています。
 多気郡の斎宮艮保の内の野田という所の田地の四方について書いたもので、注目したいのはこの「斎宮艮保」です。艮は「丑寅」で、斎宮の東北にあった「保」(=中世村落の呼び方のひとつ、主に新規開発されたもの)のようです。 康永三年は南北朝時代にあたり、康永は北朝の年号です。つまりその頃にはもう斎宮はありませんでした。つまり「斎宮艮保」は、もと斎宮であった所の東北にある村という意味で使われているようなのです。
そして斎宮の近くには、近代の明治時代末期(1910年前後)に行われた神社統合まで、「丑寅神社」という神社があったのです。それは斎宮内院、つまり今の竹神社から見てまさに東北に当たり、現在も旧社地には神社跡の碑があり、竹神社には「丑寅神社」の陰刻のある石灯篭二基が現存しています。もしかしたら、丑寅神社は、斎宮艮保に由来する神社なのかもしれません。
 そして同じ文献には、
一、 畠地参段
    在所在斎宮乾保内
と言う記述もあるのです。乾(戌亥)は北西の方角ですから、斎宮の北西の地域ではないかと思われます。この乾は鬼門とされる艮と並んで良くない方向とされ、特に仏教や陰陽道に由来する艮より古い考え方による悪い方向だったとされます。西日本では北西から吹く季節風を「あなじ」と言い、乾燥したカラっ風で船乗りが恐れたといいますが、三重県では北西の季節風は日本海から関ヶ原方向に吹き込む風がさらに流れてきたもので、時には雪風となります。斎宮では今でも北西の季節風はかなり厳しいものです。
 ならば艮に対して乾の方角も斎宮にとっては封じるべき悪所で、そこには何らかの施設があり、それを核にして保、つまり新しい村ができていくという歴史がうかがえるわけです。

竹神社に残る丑寅神社の灯篭 丑寅神社の銘
竹神社に残る丑寅神社の灯篭 丑寅神社の銘

 さらに同書には、P10に久安四年(1150)の『大宮司家古文書 志貴御厨内検帳』(東京大学史料編纂所影写本)という史料が挙げられていて、そこには
 □・・・織機殿□・・中麻績
 □・・・□丑寅保刀祢
  前寮允□宗岡在判
という記述があります。
 「志貴」は明和町の大字の名前として現在も残っており(イオンモール明和の南側です)、織機殿(おりはたどの)や中麻績(なかおみ)が、明和町内に現在も残る「織殿」や「中海(なかおみ→なこみ)」という地名に当たるとすると、これらも祓川沿い、櫛田川氾濫原の地名なので、斎宮から見ると北西の地域です。これらの領域の田畠の状況調査に丑寅保の「刀祢(地域領主)」の前斎宮寮の允(三等官)だった宗岡某という人物が関わっていたと理解できるのではないかと思います。宗岡氏は宮廷の下級官人に見られる姓で、もとをただせば、元慶元年(877)に、蘇我氏の子孫である石川木村(石川氏は奈良時代まで貴族として続いた蘇我氏の子孫)という人物が、祖先の名にちなんで「宗崗(宗我とも書くので、「そが」と読めます)」と改めることを許された氏族です。つまりこの宗岡某も、斎宮寮の三等官の允(じょう)が土着して開発領主となったとみることができます。あるいは宗岡氏の子孫が早くに土着して在庁官人のように斎宮の官人になっていたのかもしれません。斎宮関係者で土着した人たちが、この周辺で大きな力を持っていたのでしょうか。そのあたりはこれからの研究に任せたいところです。
それより面白いのは、丑寅の保が、斎宮のまだ健在だった12世紀前半にまでさかのぼるとしたら、戌亥の保も同時代にまでさかのぼるかもしれないことです。なぜそこまで私が「乾保」にこだわるのか、それは、斎宮内院の北西方向に、もとは斎宮内院の遺跡と言われていた「斎王の森」が所在しているからなのです。斎王の森は斎宮の方格街区の北西角に当たる可能性が高く、その方向に平安時代の末期には乾保ができていたとしたら、斎王の森は乾保の人たちが中世を通じて守っていた「聖地」なのかもしれないのです。 『郷土史に見る斎宮』(1978年 明和町)所収の大西源一『斎宮村郷土史』(1935年)には、近代に斎王の森周辺を開発して畠にした際に、灰を突き固めた土壇のようなものが二個所見つかったと書かれています。門の基壇か、ともしていますが、あるいは何らかの祭祀の痕跡だったのかもしれません。
 安土桃山時代、竹川村・斎宮村を通る伊勢街道(参宮街道)は現在の形、近鉄の南側の経路に整備されたと伝わっています。そして竹川や斎宮の集落も参宮街道沿いに集約されたといいます。そのため、室町時代の斎宮の景観は近世に大きく変わった可能性があるのです。
 艮保や乾保もその時期に斎宮村に移転したのかもしれません。そして斎宮村の江戸時代の庄屋など村役人を務めた家で、多くの近世文書を持つのは「乾」家なのです。
 平安末期から室町時代にかけての斎宮は、まだまだ謎に包まれているのです。
     (2022.6.1 学芸普及課 榎村寛之)

丑寅神社の灯篭(2基目)

丑寅神社の灯篭(2基目)

榎村寛之

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