第96話  斎宮の塀の話

斎宮千話一話 斎宮の塀の話
 2021年10月、斎宮跡の発掘が始まっています。近鉄で漕代駅を出て斎宮駅までの間、進行方向東側にその様子をちらりと見ることができます。
 さて、初期斎宮の確認のきっかけは、北に向いて30度東に傾いた柱穴の列があるらしい、ということでした。これは柱の間に横板を何枚も積み上げて外から見えないようにしたと考えられる、つまり塀の痕跡なのです。そして頑丈な塀で囲われ、周りから切り離されている特別な区画、ならば斎宮の中心区画ではないか、と考えられたわけです。さらにその南側では、奈良時代の塀で囲われた南北に軸線を取り、やはり塀で囲われた区画も確認されていて、斎宮の中心部分が塀で囲われていたことはほぼ確実になっています。つまり、この区画は、奈良時代以前、7世紀後半頃の斎宮の可能性が十分にあるのです。
 じつは斎宮の中心が塀で囲われていた、という事例は、すでに史跡の東側、奈良時代後期の斎宮内院(斎王のための空間)で明らかになっていました。史跡東側で確認された方格街区に先行する光仁朝と推定される斎宮において、斎王の宮殿の外周の塀が確認されていたのです。方格街区の造成に伴い、この区画は鍛冶山西区画(東から三列目、北から三列目の区画)となり、さらにその西に牛葉東区画(東から四列目、北から三列目、現在の竹神社にあたる区画)にも外周塀が確認され、斎宮の内院は二区画に拡大されたと考えられています。
 ところが方格街区では、内院以外の区画では、西南隅の八脚門と呼ばれる斎宮最大の門が見つかっている区画を除いて、区画の外周に沿うような塀は見つかっていません。そのため、斎宮駅北側の斎宮1/10模型でも、鍛冶山西地区の初期の姿を再現した区画は塀で囲われていますが、神殿や倉庫群を再現したその北側の区画では外周の塀は設けなかったのです(八脚門は左右に塀が付くのがわかっていますので、前面のみ塀を再現しています)。
 この、塀を設けない方格街区という特徴がよりはっきりしてきたのが、柳原区画、つまり史跡公園「さいくう平安の杜」を発掘した時でした。区画の中央に四面庇の立派な建物が5回200年以上にわたって建て替えられ、斎宮寮の中心、寮庁だったと考えられているこの区画にも外周の塀はなかったのです。全国の国衙や郡衙などの官衙(役所)遺跡でも塀があるのが普通なので、実は塀のない、道路だけで区切られた区画というのは少し不思議なものでした。さいくう平安の杜には外周塀を設けず、柴垣的な植え込みにしたのはそういう理由からです。

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そして「塀を設けない」という特質は、斎宮内院にまで及んできたようにも思えます。天長元年(八二四)から承和六年(八三九)にかけて、斎宮は多気郡から度会郡の離宮に移転しますが、多気郡に戻って以降と見られる時期の内院では、塀が造られなかったようなのです。とすれば内院の周りは遺構としては残りにくい築地塀、つまり土を積み上げた塀のようなもので囲われていたのではないかと考えられています。
 これはどういうことなのでしょうか。『伊勢物語』第五段には、京内(それもおそらく后の宮レベルの邸宅)の塀にも「童べの踏みあけたる築地のくづれ」があって、主人公の男がひそかに出入りしていたとあり、築地は板塀に比べて簡易な造作だったようです。方格街区ができて、斎宮の区画が規格性の高い直線道路で周囲から明確に分けられる意識が浸透すると、内院を頑丈な塀で隔絶するという意識が緩くなってきたとも考えられそうです。
この変化をネガティブに見れば、斎宮の厳めしい権威が衰退したともとれますが、ポジティブに見れば、神宮祭祀の参加する時以外は完全に塀の中に隔離されていた斎宮が、少し外部に開かれたとも理解できます。そして面白いのは、どうやらこの時期に『伊勢物語』が書かれていることです。当時の関係者にも全くみることができなくなっていた斎宮内院が、築地の崩れたところ越しに見える施設になっていたとしたら、斎宮内院を垣間見する在原業平という姿が連想されるのです。
伊勢物語70段には、斎王に仕える「好きごと言える女」が
 ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし大宮人の見まくほしさに
と詠みかけ、男は
恋しくば来てもみよかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに
と返します。
この歌の元歌と見られるものが、『万葉集』11-2663に
 ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし今はわが名の惜しけくもなし(詠み人知らず) 
とあり、神の斎垣を越えるという言い回しは斎宮だけに限られたものではないようですが、都から来た人に会いたいので越えてしまいそうだ、恋しかったら越えて来いよ、神様も止めはしないよと斎垣ごしに呼び合うのは、厳重な板塀より築地や柴垣の方がそれらしいようにも思えます。
 斎宮の塀の盛衰は、斎宮をめぐる文化にも少し影響を与えていたようです。

            (2021.11.10 榎村寛之)
 

榎村寛之

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