第92話  平安時代の「食」の新しいイメージ

 斎宮歴史博物館の展示室Tには、斎王の食事模型があります。ごくざっくりと説明すると『類聚雑要抄』に見られる永久三年(1114)七月二十一日に関白藤原忠実が東三条第に移御した時などの貴族の最高級の食事を伊勢で獲れる、あるいは斎宮に送られていた食材を使ったら都とどういう違いが出るか、というコンセプトで造ったものです。永久三年の場合、メインディッシュと言えそうなものは、タイ、スズキ、コイの膾、タイ、コイの焼物、熱汁と寒汁、ほかにタコの焼物、楚割(細く裂いた干物)、アワビの蒸し物、鳥の干物、クラゲ、ナマコ、ホヤなどが出されています。また、別の会席資料には、フナ、ミル、ノリ、ゴボウ、コウホネ、レンコン,ウリ、ナス、カブ、トウガンなどの漬物、さらにマツやカヤの実、クリ、ホッキガイ、巻貝、ヤドカリ、カメノテ、ウニ、ククタチ(カブやダイコンの若葉)、マツタケ、キジ、カモ、エビなど、そして菓子(果物やドーナツ状の唐菓子)の類の記述もあり、獣の肉は建前としては食べなくなっていたとはいえ、実に色々なものを食べていたことがわかります。
ただ、『類聚雑要抄』や鎌倉時代頃の調理についての文献『厨事部類』などを見ると、どうも味をつけていたという記述が見られないのです。そのため、酢、酒、醤、塩を持った器が別に用意されていたので、これらをブレンドしてマイソースを作り、それに漬ける形で味付けをしていた、つまり今なら刺身やしゃぶしゃぶ、焼肉のような食べ方をしていたように理解していました。そういう考え方を基に、斎宮では、平安時代には確実にあった食材、在来野菜や伊勢湾で獲れる海産物などを用いて「斎王の食事」を再現し、現在はその拡充版として「斎王宝箱」を明和町観光協会がご提供しています。
 その考え方自体は現在も基本的には正しいと思っています。
ただ、本当に味付けするという文化がなかったのか、というと、今は、そうでもなかったのではないかと著者である学芸普及課 榎村寛之は考えています。実は「斎王宝箱」でも味付けは原則行っています。

類聚雑要抄図巻(館蔵)より

類聚雑要抄図巻(館蔵)より

その理由はいくつかあります。まず一つはカツオの調理方法からです。カツオは古代には堅魚と書くように、干物にして保存する魚で、広く貢納物として使われました。また今の生節のような保存方法も古代以来あったものと見られています。また、『延喜式』には「堅魚煎汁」つまりカツオの煮汁というものが伊豆国から都や斎宮にも送られていたことがわっています(宮下章『ものと人間の文化史97鰹節』 法政大学出版局 2000年)。斎宮跡でも見つかっている細長く首も長い小型の須恵器壺、壺Gと呼ばれるタイプのものはカツオの煮汁の容器ではないかという説もあります。
 煮汁があるならそれで味付けはするだろう・・・。
二つ目は、儀式用食事は実は食べていなかったのではないか、という指摘があることです。近年の奈良・平安時代の研究では、このような食事は下げ渡すことを前提に形式的に手を付けるだけで、実際の食事はもっと簡素に手早く行われていたものと考えられており(佐藤全敏『平安時代の天皇と官僚制』 東大出版会 2008年)、たとえば、固めに炊いたご飯を口の前で優雅にもみほぐし、丁寧に払う、というような記録もあるようです(黒板伸夫『平安王朝の宮廷社会』 吉川弘文館 1995年)。つまり、ここで見られる食材はともかく、調理方法が全てではないように思えるのです。
 そして三つ目には、『延喜式』に記された税の中に、延喜式の陸奥国のヒロメ=昆布や信濃国の干鮭が見られることです。昆布は干して切るだろうし、干鮭は新巻鮭のようなものでしょう。とすればこれらは、湯戻しをしているはずです。
 そのことについて、数年前なるほど、というアドバイスをいただいたことがあります。それは「高校生レストラン」で知られる相可高校食物調理科のシェフを目指す学生さんたちと平安時代食の再現実験をした時にでした。その中で、斎宮に三河国から貢納され、現在も伊勢神宮に送られている干鯛を再現し、どのような料理にできるかを考えてみようという課題を設けたのですが、その時に、タイの干物は極めて固く、湯戻しをするのが妥当、とすれば当然出汁が出る、という意見が出たのです。その意見を言った学生さんがきっばりと言いました。

「料理人ならこの出汁は見逃しません」
 なるほど、古代の料理についての文献は数少ない上、儀式的な料理について書いたもの、現場の料理人が書いたとは考えにくいのです。
たとえば斎宮でいう膳部司、給食センターのような所なら大量に作れて配りやすい羹、つまりスープやシチューのような半液体系の食材は優先的に作られていたはず、とすれば出汁の使い道は十分にあったはず、現場で調理に当たっていた人たちは膳部と呼ばれるいわばプロ集団です。発掘調査では「膳」と書かれた墨書土器も発見されています。
これまでの「味をつけない」という説は、彼らの能力を見逃していた議論だったのではないか、その時に思いました。
つまり、儀式としての料理と実態としての料理、古代の料理はダブルスタンダードだったのではないか、例えば、儀式の料理のお下がりをもらって帰った人が、自宅で干物から出汁を取って塩で軽く味付けをして・・・ということも考えていいのではないか、と思ったのが転換のきっかけでした。
そういう観点から平安時代の食事をより幅広く考え直し、先日さらに新しい試みをしてみました。観光庁の「あたらしいツーリズム」事業の一環として「明和観光商社」が行った実証実験で、「斎宮フレンチ」を創作したのです。これは、もしも平安時代の料理人が現代の斎宮に転生したら、というスタンスで、町内にある地物にこだわるフランス懐石料理さんと連携して、平安時代から食べられていたのが確実な食材と、現在の地域名産を組み合わせ、平安時代を連想させる食器や盛り付けを意識して、懐石風フランス料理を創るという試みです。実験に参加いただいた観光関係者の方々からは、新しい観光素材として幸いご好評をいただきました。これからの新しい地域観光・歴史体験の一環として、特別なイベントのような形で運用していければいいなぁと考えています。
     

無題

無題

榎村寛之

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