第91話  斎宮のハンコ

 斎宮歴史博物館の展示資料の中に「斎宮之印」というハンコがあります。天喜二年(1054)の斎宮寮解という文書に捺されていた印影を基に新規に「創った」ハンコです。つまり実物ではありませんが、『延喜斎宮式』に出てくる「寮印」にあたるものと考えられています。 
斎宮の印については『続日本紀』の養老二年(七一八)八月十三日条に
 斎宮寮公文に始めて印を用いる
という記事があり、このころから斎宮寮が自分で公文書を完成できる、つまり官司としての自立が強まると理解されていますが、この記事を用いての専門的な研究は多くありません。その数少ない研究者の一人、早川庄八氏は、斎宮の印について極めて興味深い指摘をされています。それは、
・公印の規定が初めて作られたのは大宝令である
・しかし、大宝令では、中央官司は左右京職など大量の文書を扱う官司を除いて公印は作っておらず、印は内印(天皇御璽)、外印(太政官印)や僧尼を管理する僧綱などごく限られた官司と「諸国の印」に限られていた。
・斎宮寮の印が配布された養老二年は養老律令が一応完成した年で(施行は天平宝字元年〔七五七〕)、翌年にはいくつかの中央官司でも公印が作られているが、この印は伊勢にある地方官司の印として作られ、斎宮の行政事務が伊勢国府から自立したことを示すものである。
と、いうことです。確かに斎宮寮の頭(長官)は、最も早い時期の大宝三年(七〇三)段階で引田朝臣広目という人物が「斎宮頭兼伊勢守」になっており、伊勢国司と深くかかわっていた可能性が高いものです。斎宮寮に公印が支給される前には、斎宮から朝廷へ送られる文書はまず伊勢国司のもとに送られ、伊勢国印が捺されてはじめて公文書になり、伊勢国司からの解(下の役所から上の役所に差し上げる書式の公文書)として都に送られた可能性が高いでしょう。
ただ、この印を見ていて、ふと疑問に思ったことがあります。なぜ印面が「斎宮寮印」ではなくて「斎宮之印」なのでしょう。現在残っている奈良時代の国印の文字は「伊勢国印」「大和国印」のように、「之」の字は入れません。また「斎宮寮印」にしないと、斎宮の事務をつかさどる斎宮寮からの文書か、斎宮、つまり斎王や女官を含む組織からの文書かがわからなくなるのではないか、という疑問も出てきます。

斎宮之印(復元)

斎宮之印(復元)

しかしこれについては、『国史大辞典』の「印章」の項目を見ると、なるほどという傾向が見て取れます。京内官司の八省と呼ばれる民部省や大蔵省などの印は、たとえば「民部省」なら「民部之印」「大蔵省」は「大蔵之印」、「宮内省」は「宮内之印」、そして前述の左京職も「左京之印」です。つまり京内の役所間では省・職・寮などの字は入れないというルール
があったようなのです。とすれば「斎宮之印」が斎宮寮の印であっても不思議ではありません。しかし、それは「斎宮之印」が京の役所のルールで造られた可能性を示しています。ということは、斎宮寮の印は、地方官ではなく、養老令体制下になり、京内の各官司が印を持つ、つまり本格的に文書行政を始めるようになったのと歩調を合わせて、京官(京にある役所)に準じて使われるようになったと理解することも可能かとも思われます。
 このように見てくると、なぜ「斎宮之印」なのかという問題には一定の解決がなされるとは思いますが、なお残された問題は、斎宮寮印がどこまで機能していたかという点でしょう。斎宮寮は斎王の家政機関という性格があります。つまり宮廷における中宮職(皇后や中宮に仕える役所)や、東宮坊(皇太子に仕える役所)と同様の機能です。ならば、斎王の代わりにその生活に関わることを中央に上申する文書などは斎宮寮が出していたことになります。実際「斎宮之印」が捺されている斎宮寮解は、斎王の馬が死んだので代わりの馬を要求したものです。つまり斎宮寮は、斎宮全体と京を全面的に結ぶ窓口ということができるようです。また、斎宮では12世紀頃から「宣旨」という女官が見られるようになります。これは斎王の「おことば」を伝える係で、おそらくもともとは筆頭女官の内侍の職務の一つだったと考えられるものです。つまり斎王の命令は女官を介して斎宮寮に伝えられ、斎宮宣(口頭での命令を文章化した文書の形式)して公布されたと考えられます。「宣」は公印を伴わない形式なので、比較的使いやすい文書なのですが、残っている実物は残念ながらありません。一方、東大寺に伝わった東南院文書には、元斎王の酒人内親王(光仁天皇の時代の斎王、異母兄の桓武天皇の妃となる)が東大寺に私財を施入(寄付)した時の文書が残っているのですが、そこには「酒」という一文字の印が文書いっぱいに捺されています。この文書は斎王退任後のものですが、斎王の私的文書にはこういう私印が使われていた可能性もあるということを付け加えておきましょう。
なお、ついでに印についての面白い話を。斎宮に関わる古代印としては、伊勢神宮に内宮・外宮ともに古い印が伝わっています。いずれも平安時代にはできていた事務用の公印のようで、内宮の印には「内宮政印」という印刻があります。ところが国立歴史民俗博物館が編纂した『日本古代印集成』(国立歴史民俗博物館 1996年)という本には、この「内宮政印」と同じ印面を持つ印がもう一例報告されています。それは川崎市の個人蔵として報告されているのですが、斎宮楽殿地区、つまり現在「斎王宮跡」の碑のある「斎王の森」の北東あたりで江戸時代後期の文化年中(1804−1818年)に出土したというのです。「内宮政印」の模刻品だと思われますが、なぜ斎宮からそんなものが出土したのかは全くわかりません。斎宮に関わる謎の文化財といえるものなのです。

榎村寛之

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