第89話  ヤマトタケルと伊勢

 今年は『日本書紀』編纂1300年です。しかしコロナ(COVID-19)禍もあって『古事記』1300年に比べて、なかなか盛り上がりようもないのが残念です。もっとも、『日本書紀』は『古事記』に比べて物語性が少なく、しかも特に神話では、本文を適当に切って、「一書」と呼ばれる異伝がたくさん併記されているため、面白みは倍加されるのですが、構成が複雑でわかりにくいという欠点があります。さらに本文だけ取り出してつなげたら、たとえばイザナギとイザナミはスサノヲを追放した後に全く出てこなくなるなど、色々おかしなところが出てくるのです。そして『日本書紀』の神話についてお話をすると「一書があるよ」というだけで「へぇ」という反応が多く返ってくるので、『古事記』に比べて『日本書紀』があまり親しまれていないことがうかがえるのです。
 『古事記』は神代に始まる上巻、神武から応神に至る中巻、仁徳から推古に至る下巻の三部構成ですが、「ふることぶみ」の和訓のように、古いことが詳しく、継体天皇以降の新しいことになると極めて簡略になっていきます。一方、『日本書紀』は、いろいろな異説を並べた神話のあと、神武天皇即位元年から干支年号(甲子年とか庚申年とか)がはじまり、歴史書の体裁になり、さらに継体天皇以降大変詳しくなっていきます。したがって厩戸皇子(聖徳太子)とか大化の改新とか壬申の乱の研究は『日本書紀』で行うのが基本になります。
 さて、『古事記』の上巻や『日本書紀』の神代巻には「伊勢」という地名、あるいは伊勢神宮はほとんど出てきません。天照大神は神話の中にこそたくさん出てくるけれど、伊勢神宮を定めた話が見られるのは『日本書紀』だけなのです。
そして記紀ともに出てくる伊勢神宮に関わる物語が、ヤマトタケルのお話です。
 ヤマトタケルといえば、父の景行天皇の命で西や東で戦い、伊勢神宮にもその過程で参詣し、最後は「私の脚は三重に曲がってしまった」と嘆いて伊勢の北部で亡くなり、そこに「三重」という地名ができ、その魂は白鳥になって飛んだ、というのがよく知られているところでしょう。しかしこの話も、『古事記』と『日本書紀』では少し異なります。
 まず『古事記』の話は、
「小碓命(またの名をヤマトヲグナ王)の、同母兄の大碓命の手足を引きちぎって殺す程の非常識な強さを恐れた父天皇がクマソの征討を命じたので、叔母の「倭比売命」の衣装を借りて女装し、リーダーのクマソタケルの兄弟に近づいて刺し殺し、その際に「倭健命」と名乗るように言われ、帰路に出雲健を謀殺し、次に東国遠征を命じられ、「伊勢の大御神の宮」に参り、神の朝廷を拝んで、倭比売命に「天皇は私に死ねとおっしゃるのでしょうか」と嘆き、草那芸剣と袋をもらって東に向かい、尾張では国造の娘ミヤズヒメと親しみ、相武(相模)国では野火で焼かれそうになったのを、佩刀で草を袋に入っていた火打石で、向い火を焚いて逆に敵を焼き殺し、浦賀水道では波が荒くて船で渡れず、后のオトタチバナヒメ(弟橘比売)が身を投げて波を鎮め、坂東を鎮めて足柄から甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を経て尾張(愛知県)に戻り、ミヤズヒメのもとに草那芸剣を置いて近江(滋賀県)の伊吹山で白猪に化した神に苦しめられ、美濃(岐阜県)から北伊勢に入り、三重村で脚の弱ったことを嘆き、能褒野で有名な望郷歌
 倭は 国のまほろば たたなづく青垣 山隠(ごも)れる 倭し麗し
などの歌を詠み、ここで亡くなり、陵を造ったが、白い大きな鳥(八尋白智鳥)になって飛んでいき、河内国に降りたのでそこにも御陵を造ったが、さらに鳥は飛んで行った」
というものです。

 これに対して『日本書紀』は、
「景行天皇自ら九州に親征して熊襲を平定したが、再び反乱したので、双子の息子の大碓命、小碓命のうち弟の小碓こと「日本童男」を派遣したところ、熊襲のリーダーのトロシカヤ(取石鹿文)、またの名を川上梟帥(タケル)に女装して近づき、刺し殺し、その時に「日本武皇子」の名を贈られ、帰路に吉備と難波の荒ぶる神を殺し、さらに天皇が東国遠征を大碓命に命じた所、恐れて隠れたので、自ら名乗り出たヤマトタケルに権力の象徴である斧鉞を渡す。タケルは道をまげて伊勢神宮を拝み、「倭姫命」に挨拶して、叔母の倭姫命は草薙剣を渡して「慎め、な怠りそ(一生懸命)やれ、けっして手を抜くな」と告げられ、駿河で点け火に遭い、火打石で焼き返し(異伝として、叢雲剣が独りでに抜けて草を薙ぎ祓い、草薙剣と呼ばれるようになった、ともある)、相模から上総に海を渡ろうとして小さい海だと大言すると大荒れになり、従っていた妾のオトタチバナヒメ(弟橘媛)が身を投げ、その後上総から海路陸奥に入り、戦わずして蝦夷を平定し、常陸(茨城県)、甲斐(山梨県)を経て武蔵(埼玉県・東京都)、上野(群馬県)を廻り、信濃で白い鹿の姿の神に祟られ、美濃から尾張に至り、ミヤズヒメを娶って剣をここに置き、近江伊吹山で大蛇の姿の山の神の害毒に遭い、尾張から伊勢に至り、能褒野で虜の蝦夷らを神宮に奉るが、ここで死去し、陵墓が造られる、その時魂が白鳥になって陵を出て、倭の琴弾原(奈良県御所市)と河内の古市邑(大阪府羽曳野市)に降りたのでそこにも陵を造ったが、白鳥は高く天に上って行った)
となっています。
 この二つの話の少なからざる相違が多くの議論を生んでいるのですが、今回注意をしておきたいのは、ヤマトヒメに関わる部分です。ごらんのように『古事記』ではヤマトタケルは叔母であるヤマトヒメに二回会い、西国に向かう時には女性の衣装を借り、東国に向かう時には父の自分への扱いを嘆いています。そして「伊勢の大御神の宮」ということばは、「神の朝廷」とともに東国行きの時にしかでてきません。一方『日本書紀』では、西に向かう時には会ったとはしておらず、衣装も借りていません。ヤマトヒメと伊勢神宮が出てくるのは東行の時のみで、ここではヤマトタケルは雄々しく、ヤマトヒメもただ励ましています。どちらが心の琴線に触れる物語かは一目瞭然ですね。
 そして、これらのエピソードから、ヤマトタケルの物語は伊勢神宮や天照大神の神助の話と理解され、伊勢神宮関係者に伝えられていたと考えられることも多いのです。それでは伊勢神宮関係の文献にはどのように書かれているでしょうか。

じつは全く出てこないのです。
 伊勢神宮関係で古代について書いたものといえば、平安時代初期の804年に編纂された『皇大神宮儀式帳』と、平安時代後期に編纂された編年体の日記的な史書『太神宮諸雑事記』、また倭姫命関係の文献としては平安時代後期の『神宮雑例集』が知られていますが、その中にはヤマトタケルは全く出てきません。
 そもそも『日本書紀』のヤマトタケル記事は景行天皇の40年のこととしています。ヤマトヒメが伊勢神宮を立てたのは垂仁天皇の25年で、垂仁天皇の在位は99年までありますから、ヤマトタケルが伊勢神宮に来たのは神宮成立からざっと114年の後ということになります。しかも景行天皇の20年にはその娘、つまりヤマトタケルの異母姉妹の五百野皇女を遣わして天照大神を祀らせているのですから、なぜヤマトヒメが伊勢にいるのかという疑問があります。ところが『皇大神宮儀式帳』では、ヤマトヒメ(この書では「倭姫内親王」とする)は伊勢神宮を定めた後、朝廷に参上した、つまりヤマトに還ったとしています。さらに神宮の少女巫女だった大物忌について、倭姫内親王が朝廷に「還参上」した時にその代わりとして禰宜の祖先の娘が奉仕したのが始まりとしているので、神宮の立場は一貫して、ヤマトヒメ垂仁朝帰還説で統一されているのです。これではヤマトタケルが伊勢神宮に来る理由がありません。さらに『太神宮諸雑事記』では、景行天皇の時代の出来事として、五百野皇女が来たことだけが書かれているのですから、ますますヤマトタケルが来る余地がなくなってしまいます。
 ところがひとつだけ、ヤマトタケルが出てくる文献がありました。それはかの『倭姫命世記』なのです。これは平安末期から鎌倉初期にかけて作られた伊勢神道の偽書で、そのまま信頼できないのに引用されることの多いことで有名な書物です。
 そこでは、ヤマトヒメの帰還記事はなく、景行天皇の20年に倭姫命が年老いて奉仕できなくなり、「五百野皇女久須姫命」を御杖代として定め、28年10月に「日本武尊」が道を曲げて伊勢大神宮を拝し、ヤマトヒメに別れを告げて、ヤマトヒメは草薙剣を日本武尊に授け、「慎め、な怠りそ」と言い、日本武尊は駿河で野火に遭い、天叢雲剣がひとりでに抜けて草を薙いだので草薙剣と呼ぶようになり、後、東を平定して尾張でミヤズヒメと結婚し、剣を置いて伊吹山で毒に当たって死んだため、剣は今も尾張の熱田社にある、と、ほとんど『日本書紀』の要約が書かれています。また、一書に曰くとする中では、景行天皇の時代に日本建尊が「比々良木の八尋鉾根」を皇大神宮に納めたともあります。これは『古事記』では天皇から権威を表す武器、つまり『日本書紀』でいう「斧鉞」に当たるものとして賜ったとしているものなので、ここで出てくるのはおかしなものです。これはかえって、神宮にはヤマトタケルについての独自の伝承がなかったことの傍証になるものでしょう。
 このように神宮には独自の「ヤマトタケルの物語」はどうやらなかったようなのです。

一方、ヤマトタケルと伊勢とのかかわりについては、もうひとつ面白い問題があるのでご紹介しておきましょう。それは弟橘媛の問題です。
弟橘媛は穂積忍山宿禰の娘となっており、穂積氏は物部系の豪族です。そして『日本書紀』『古事記』『延喜式』には、ヤマトタケルの陵墓は伊勢国鈴鹿郡にあるとしていますが、同じ郡内にあたる現在の亀山市には、『延喜神祇式』にオトタチバナの父の名に通じる「忍山神社」が記録されており、その神社は穂積氏が守ってきたと伝わっています。つまりオトタチバナの伝承は伊勢北部に関わる可能性が高いのです。オトタチバナは浦賀水道に身を投じますが、『常陸国風土記』では海沿いの郡に倭武天皇の「皇后(橘皇后)」としてのオトタチバナの伝承があり、海で漁を行ったともしています。どうも海との関係がうかがわれますね。そして忍山神社の近くに、現在、宮内庁によって日本武尊陵に比定されている墳丘長90mの北伊勢地域最大の前方後円墳の能褒野王塚古墳(旧名、丁子塚、ヤマトタケルの墓と決定したのは近代)が造られたことから考えても、この地域に王権と関東の両方に関係していた有力者がいた可能性は少なくないのでしょう。『古事記』によるとオトタチバナには若建王(『日本書紀』では稚武彦王)という息子がいて、その孫が応神天皇の妃の一人になり、その孫のオシサカオオナカツヒメは雄略天皇(ワカタケル大王)の母になっています。つまりオトタチバナはヤマトタケルの妻で、二人のワカタケルに関係するということになるのです。このあたり、伊勢神宮だけでは語れない古墳時代の伊勢地域と関東・大和との関係をうかがわせるヒントが眠っていそうにも思えるのです。


榎村寛之

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