第88話  忘井を探す その2 斎宮甲斐という女性

さて、忘井の歌についてはさらに考えなければならない問題があります。作者の斎宮甲斐について、そしてこの歌の伝世についてです。
 作者の斎宮甲斐は、決して有名な歌人ではありません。完全に調べつくしたわけではありませんが、勅撰和歌集に採られた歌はこの一首のみのようです。
しかしその名前から見て、斎王に仕えていた女房または女官で、その父親が甲斐国に関わる人、たとえば甲斐守の娘だったというのがその呼び名の由来と考えられます。

そこでまず、女房という立場について。
斎宮で働いてお給料をもらっている女官は、内侍(または命婦)と呼ばれる筆頭女官と、斎王の乳母、そして一等から三等(史料によっては上等・中等・下等)の女孺(にょうじゅ・めのわらわ)です。内侍は本来天皇の側近秘書のことでその仕事を、命婦というのは五位(つまり貴族)の位を持つ女官のことでその地位の高さを表す言葉です。しかし9世紀頃からこの制度にはかなり変化が生じてきたようで、12世紀になると、宣旨(斎王の命令を伝える係)というスポークスパーソン(本来は内侍の仕事の一つ)が分離したり、本来内侍が任命されるまで、つまり野宮までのつなぎ役だった女別当(派遣で来ている高級女官)が斎宮にも常時いるようにもなります。つまり斎宮女官の仕事が複雑化するわけです。これは11世紀初期に斎宮内侍が託宣をして宮廷を揺るがせたことに対する再編なのかもしれません。
一方、11世紀頃になると、高級女官のもとには女房(人妻の意味ではありません。本来は女官の意味で、男性官人を男房という例も)と呼ばれる、私的に雇用されているけれども準公務員的な立場の貴族女性が増えてきます。紫式部や和泉式部、赤染衛門は一条天皇の中宮藤原彰子の女房で、清少納言は皇后藤原定子の女房だったのは有名ですね。また、百人一首を見ると、待賢門院堀河(ながからむ心も知らず)や殷富門院大輔(見せばやなをじまの海女の袖だにも)のような女性歌人の名前が見られますが、これらも女院(天皇の母や天皇の母の代理を務め、上皇待遇を受ける女性)に仕える女房です。また、二条院讃岐(わが袖は潮干に見えぬ沖の石の)、祐子内親王家紀伊(音に聞く高師の浜のあだ波は)は、それぞれ二条天皇に仕えた讃岐守の眷属女性(妻か娘か、つまり五位相当の下級貴族身分の人)、後朱雀天皇皇女(斎王良子内親王の異母妹)祐子内親王に仕えた紀伊守の眷属女性の意味です。
つまり、斎宮甲斐という呼び名は、ある斎王に仕えた甲斐守の眷属女性ということになります。その斎王が誰かは歌の詠まれた年からわかります。
斎宮甲斐が仕えた斎王は、白河天皇の皇女で、鳥羽天皇の時代の斎王だった恂(殉または女偏に書く文献もある)子内親王で、天仁元年(1108)に卜定、天永元年(1110)に群行しています(つまり詞書にある天仁元年は間違いです)。しかし彼女は、有力な後見人を持つ斎王ではありませんでした。母は木工頭藤原季実の娘、つまり藤原氏とはいえ、木工をする役所の長官程度のいわば下級貴族の娘、しかも白河天皇が退位して上皇になってから産まれたようで、いわばお手付きの隠し子が、斎王を選ぶ際に、はじめて認知されて内親王になったという、珍しい斎王なのです。

千載和歌集断簡(鎌倉時代? 個人蔵)

千載和歌集断簡(鎌倉時代? 個人蔵)

 在任18年の後、鳥羽天皇の退位に伴い帰京しますが、斎宮甲斐がそれまで斎宮にいたのかどうかはよくわかりません。そしてどういう経緯で彼女がこの斎王に仕えたかはよくわからないのです。ちなみに藤原季実は、賢人右府と言われた右大臣実資(『小右記』という膨大な日記を遺したことで有名)の兄弟、懐平の曾孫(映像展示『斎王群行』の語り手、藤原資房の従兄弟の子)に当たりますが、小野宮家といわれ、摂関家に次ぐ名族だった一族も、この時代には五位レベルの下級貴族にまで衰えていたのです。
一方、甲斐守については面白い手掛りが得られました。斎王卜定の天仁元年に甲斐守になったのは藤原師季という人物で、彼は永久二年(1114)まで甲斐守を務めています。通常の国司任期が3年ですから、長く務めた受領と理解できます。まさに斎宮甲斐が群行に同行したころ、甲斐どのといえば師季だったのです。甲斐が師季の縁者だった可能性は高いでしょう。
この藤原師季という人物は、藤原済時の曽孫で、済時は関白忠平の孫、道長の父、兼家の従兄弟に当たります。また済時は、三条天皇皇后の藤原娍子の父、つまり斎王当子内親王の外祖父でもあります。ちなみに師季の祖父は通任といい、当子内親王の外叔父であるためか、群行の際には長奉送使を務めています、『小右記』によるとあまり精勤ではなかったようですが。
そして師季の正妻は、権大納言藤原行成の孫、権中納言・元大宰大弐の藤原伊房という上級貴族の娘なので、女房勤めをしていたとは考えにくいのです。とすれば、斎宮甲斐は、系図には表れてこないものの、藤原師季の娘である可能性が高いのかと思われます。あるいは正妻の娘ではなかったのかもしれません。
さて、忘井の歌についてはもう一つ考えるべき問題があります。この歌が詠まれた天永元年(1110)から、『千載和歌集』が藤原俊成によって編まれた文治四年(1188)までの78年間、この歌がどういう形で伝えられていたかです。ある歌人の歌が勅撰和歌集に採られるまでには、いくつかのプロセスが想定できます。まず詠んだ本人がまだ生きていて自薦する場合、次に『歌合』などの形で編纂された歌集から採られる場合、そして例えば『斎宮女御集』のような歌人の個人集(自選、他選があります)から採られる場合です。『斎宮甲斐集』という歌集が残っていない上、おそらく勅撰和歌集に採られたのがごくわずかの歌人の場合、その歌はどのように伝えられるのでしょう。
 所京子氏『斎王和歌文学の史的研究』(国書刊行会 1989年)によると、彼女の場合、その手掛りになりそうな歌が『散木奇歌集』という歌集にみられます。

伊勢に侍りけるとき、五月一日郭公のいたくなきければ、かひの君のもとよりいひ送て侍ける
 郭公けふは五月といひかほに したりかほなる聲ぞ聞こゆる

 ほととぎすをのかさ月の空ならば 所もわかすしたりがほなれ

 これは「甲斐の君」と、編者源俊頼(1055-1129)の贈答歌です。源俊頼といえば、12世紀前半の歌壇の中心人物の一人で、第五番目の勅撰集『金葉和歌集』の選者ですが、『千載和歌集』で最も多く採られた歌人でもあり、その歌論書『俊頼髄脳』は広く長く読み継がれました。そして斎宮とも関係が深く、『散木奇歌集』には、斎宮で「石なとりの歌合せ」を行っています(斎宮百話46話参照
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/hyakuwa/journal.asp?record=46)
 源俊頼は一条天皇の時代に活躍した才人の大納言源経信の息子ですが、官位はそれほど上がらず、従四位上木工頭にとどまりました(木工頭は斎王の祖父、藤原季実と同じ仕事なので、接触があったのかもしれません)。そして斎宮甲斐が伊勢に向かった天永二年(1111)以降は散位、つまり身分はあるがこれという仕事がない立場になっています。おそらくこの時期に斎宮に来ており、その際に斎宮甲斐と親しくなったのではないかと考えられます。とすれば、忘井の歌なども俊頼が記録したと考えることができるようにも思えます。

 そして『千載和歌集』の選者藤原俊成(1114〜1204)は、和歌の先達として俊頼に私淑していたらしいのです。そして『親宗卿記』によれば、俊成は『千載和歌集』完成の文治四年(1188)の10年ほど前に院宣を蒙っていたようで、また俊成自体が、15代の天皇に渉る私撰和歌集『三五代集』の編纂を進めていたことが『山家集』や『経盛集』から知られるのだそうです。
 ということは、俊成はかなり長期間にわたって名歌を探しており、源俊頼周辺の歌人たちも当然その調査対象になっていたのでしょう。
 とすれば、斎宮甲斐の歌は、源俊頼のグループから藤原俊成のグループへと受け継がれ、勅撰集に採られたのではないかという可能性が指摘できるのです。
 斎宮甲斐の忘井の歌を二回にわたって検討してみました。一首の歌から壱志頓宮、忘井の正体、甲斐の名前の由来、そして源俊頼から藤原俊成に至る名歌継承の流れなど、色々なことが見えてきたようです。


 というわけで・・・
・・・うちの家、このごろ奮わなくて、父さんも受領止まりみたい。どこかのお妃さまか女院様のとこで女房ができたらなあって思ってたけど、まさか斎宮行きとはねぇ。斎王さまはこないだまで認知さえされてなかった人だし、なんかついてないなぁ・・・。ひい爺ちゃんは帝の娘さんの長奉送使をしたらしいけど、私は都を離れてしばらく行きっきり、伊勢でなんかいいことあるのかなぁ・・・
あー!!ダメダメ、後ろ向きはダメっ。この旅にくっついてきた俊頼のおっちゃんなんか、ワシは歌が詠めたらどこでもいいんじゃあって言ってるじゃない、なんたって気の持ちようよ。そういえばこの頓宮には忘井って名前の歌枕があるし、いっちょ誓いをたてて、生まれ変わった気持ちで斎宮に向かいましょ。住めば都、そう、行く先は竹の「都」なんだから。
それでこそ人生、甲斐があるってものよ。

斎宮甲斐の日記より(大ウソ)

榎村

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