第83話  ずっと書いておきたかった斎宮の文化財「赤彩土馬」の話

2020年3月31日を持って私は斎宮歴史博物館学芸普及課長の職から去りました。はい、定年退職です。4月1日以降は再任用の限定雇用で博物館に残っていますが、まずは一区切り、という所です。
 この「斎宮千話一話」もたしか2000年頃に始まった「斎宮百話」からの歴史があり、いろいろと心に移る斎宮よしなしごとを書いてきましたが、とりあえずまだ継続のつもりではおります。なんとか千話一話でも百話まで行きたいなあと思っています。
 その架け橋になる一編を。
 私が斎宮跡調査事務所を初めて訪れたのは、大学院修士課程一年目の夏、1982年7月のことでした。夏の暑いさ中、冷房の効いた展示室に所せましと墨書土器、緑釉陶器、灰釉陶器、様々な硯、平城京の資料館以外ではなかなか見られない、またまとめてみることがなかなかできない平安京の遺物にも匹敵するような遺物が並んでいる、しかも平城京と平安京のように断絶することなく、継続して発見されているという、何たる遺跡だここはと驚愕したことをよく覚えています。その中で特に目を引いたのが、「朱彩土馬」とキャプションがある、大型の焼き物の馬形でした。
 平城京などでは土馬はそれほど珍しい遺物ではありません。雨ごいなど水の祭や祓に関わると推定されていた、生きた馬の代わりに神にささげるために壊す道具だと考えられていた作り物、フィギュアです。しかしこの土馬はかなり変わっていました。まず部分的に残っている赤い色、そして下半身が欠けているのに、全長約30センチ、普通の土馬の1.5倍はあるというその大きさ、どこにも類のないもの、と直感的に思いました。
 それからしばらくして、奇縁によって三重県に就職して博物館開館に関り、この土馬はより身近な存在となったのです。
 それから日を重ねるにつれ、斎宮跡で出土する他の9点の土馬や、斎宮跡の東南4キロほどの所で確認された北野遺跡(6〜8世紀の土師器生産工房遺跡)で発見された19点の土馬片に接するうちに、私はこの土馬に違和感を持つようになりました。
 もともと土馬は壊すために作る、といってもいいものです。だから壊れやすくできています。例えば首が細い、例えば胴と脚は別に作って接着している。脚は細目で長いなど、一撃で壊れやすくしていることが多いのです。ところがこの土馬は一つの陶土の大きな塊から首と短い脚を成形して焼いているようで、とても簡単に壊れるようなものではありません。そして胴体が丸々と太っているので、使っている陶土の量も極めて多いのです。そしてこの土馬には鞍とその周りの細竹を挿して付けたと見られる二重円状の装飾、粘土紐を用いた手綱、面繋の表現や、よく観察すると飾り鈴が付いていたのではないかと思われる房紐の表現など、装飾の多い飾り馬という珍しい特色が見られるのです。

 斎宮の土馬を集成・分析した伊藤文彦氏の「斎宮跡出土の土馬」(『斎宮歴史博物館 研究紀要25』所収 2016年)によると、このような重厚な土馬は斎宮跡で2点確認されています。もう1点は出土地不明で長く斎宮小学校に保管されていたもので、大きさは「朱彩土馬」の2/3程度、やはり鞍や手綱、面繋などの表現はあるものの随分つくりは粗く、また彩色の痕跡もないように見えます。
 さて一方、「朱彩土馬」については最近大きな発見がありました。彩色に使われた赤い顔料(絵具)がベンガラ(鉄の赤さびを原料に作られた顔料)で、朱(酸化水銀を原料に作られた顔料)ではないことが明らかになったのです。そのため、この土馬は現在では「赤彩土馬」と呼ばれるようになっています。この色については、赤土による汚れではないかという説もありましたが、いずれにしても、人の手で色が付けられていたことは間違いないようです。
 このような色のついた馬について興味深いのは、伊勢神宮にも色付きの土馬があったらしいことです。延暦23年(804)に編纂された『皇太神宮儀式帳』によると、神宮の別宮の荒祭宮、月読宮、瀧原宮には、神財として鞍、立髪、金飾のある、高さ一尺(約30センチ)「青毛土馬」があったことになっています。青毛とは今は青みがかった黒い毛を言いますが、この青毛が同じ意味なのかどうかはよくわかりません。あるいはよく青灰色と呼ばれる須恵質の焼き物の土馬だったのかもしれません。

大型赤彩土馬

大型赤彩土馬

一方、『続日本紀』の神護景雲三年(769)二月丁卯条には、伊勢神宮に馬形を奉るという記事があります。この馬形の姿については、具体的な記述はありませんが、例えば祓に使う消耗品を大量に寄贈した、というようなものでもないでしょう。むしろ後世の神馬のように、神の持ち物扱いをされるものだったと考えられます、
これらの情報を総合すると、760年代位には、土馬を神への捧げものとして奉り、神宝として保存するという意識があったようです。このような意識は平安時代には見られないので、、いわば奈良時代限定の祭祀意識で、『儀式帳』にしても神宮本体ではなく、荒祭宮など別宮にのみ見られるのは、すでに本宮では失われていたとも考えられます。神護景雲二年は称徳天皇の時代です。このころには斎宮は置かれず、神宮では伊勢神宮寺を中核とした神仏習合が進められ、神護景雲という年号自体が伊勢神宮外宮の上空に現れた瑞雲の祥瑞によるものでした。その時代の神宮のありかたは、続く光仁・桓武朝にはことごとく否定されていきます。そうした大変革の中で、青毛土馬は別宮に下げ渡されたなどということも考えられます。
さて、それにしても神宮の土馬は青い馬、斎宮の土馬は赤い馬なのです。そして青い馬が神宮に納められた頃には斎宮はなかった可能性が高いのです。これはどのように考えるべきなのでしょう。
実はそれに対する確答は今のところ持ちあわせていません。これからの課題なのです。ただ一つ言えそうなことは、斎宮小学校で保管されていた赤く塗られていない大型土馬は、赤い土馬を模倣した、いわゆる劣化コピーなのではないかということです。とすれば、斎宮の土馬の中でも赤彩土馬は、模倣品が造られる程度には古いものなのではないかと考えられます。前掲伊藤論文では、形式学的編年と藤原京の土馬との比較から、赤彩土馬を710年頃までに造られたものではないかとしています。だとすれば、天武朝か文武朝の斎宮関係遺物ということになり、神宮に納められた土馬とは大きく時期が異なります。ただ、その根拠は、頭部の手綱、面繋の表現のある土馬が藤原京出土に限られ、平城京以降の土馬にはそれがないというもので、神宮別宮の土馬、つまり装飾のある神馬的な土馬の記録には特に論及はありません。もしかしたら、手綱・面繋のある大型土馬と鞍の表現程度しかない小型の土馬は直線的につながるものではないかもしれません。とすれば、赤彩土馬が造られた時期にはもう少しふり幅が、例えば聖武朝の井上内親王の時期ものなのかもしれないのです。
いずれにせよ、赤彩土馬は、30年間の斎宮研究の進展にも関わらず、まだ色々な謎を遺しています。それが明日にでも一点の出土遺物により、一気に研究が進むかもしれません。
斎宮研究の面白さはそういうところにあると思うのです。
                    (学芸普及課 主査兼学芸員 榎村寛之)

榎村寛之

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