第79話  千話一話特別編 松本潤さん演じる、あの松浦武四郎の北海道原体験?

 本館のある明和町のお隣、三重県松阪市は、松阪牛とともに三人の歴史的有名人、松坂(松阪市の旧名)の街を拓いた戦国大名蒲生氏郷、三井財閥の基を築いた三井高利、日本の伝統的な感性を追求し、もののあはれを説いた国学の開拓者本居宣長が有名ですが、今、彼らに匹敵する知名度を獲得しつつあるのが、蝦夷地を探検しアイヌの人々を愛し、彼らから愛された北海道の名付け親、松浦武四郎でしょう。何しろNHKのスペシャルドラマで、あの!国民的アイドル嵐の松本潤さんが演じるのですから、これは蒲生さんも三井さんも宣長さんもなし得なかった快挙です。松阪市には「松浦武四郎記念館」があり、毎年「武四郎まつり」などで武四郎を発信しているので、今年は大いに盛り上がるだろうなぁ、と喜んでいたところ、突然本館にも、武四郎と少し関わる面白い出来事が発生しましたので報告します。
 松浦武四郎について調べてみても意外に明確に語られていないのは、彼が当時蝦夷地と言われていた北海道にいつ、なぜ興味を持ったのかです。多くの紹介では、松坂を離れ、長崎の平戸で住職をしていた時に、緊張する北方情勢を知り、されど北海道内陸部がいまだ未知の世界だったことを憂えて旅に出た、時に27歳だったと説明されているようです。
 ところが、ひょっとしてその定説を書き換えるかもしれない事実が見つかったのです。
 ことは今春、松阪市にお住まいで、本館のさまざまな講座にお越しいただいている川村亮平様から、代々川村六郎兵衛を名乗ってきた御自分の家の系図を作るために過去帳を調べたので意見がほしい、と依頼されたのに始まります。川村様のご先祖は、紀伊国在田郡(現有田市)にあった北村家と関係が深く、その過去帳にも北村家代々の命日が記されています。この北村家は、在田郡栖原(すはら)村に住んでいたことから代々栖原角兵衛を名乗り、江戸に出て木材問屋を始め、さらに東北から北海道に進出し、松前藩御用商人として蝦夷交易をおこなっていた大商人として有名で、それは川村様もすでにお調べでした。しかし栖原屋と川村家の関係はどうもよくわからなかったのです。

 川村様の御研究を再検討すると、過去帳最古の人で、宝暦12年(1762)に亡くなった初代六郎兵衛は松坂から「七太夫舟」で江戸に出て、栖原屋に「開店の勲功」があったとされています。それだけの実績を残したのは、栖原屋が直接蝦夷交易に乗り出した宝暦前期(1751-1756頃)に活躍をしたからではないかと考えられます。それまでの栖原屋は木材商を主な商いとしていたので、あるいは紀州と江戸を結ぶ廻船の乗組員となり、頭角を表したのかもしれません。いっぽう彼は勢州から指揮をしたとも書かれていて、また江戸深川の寺に顕彰碑が建てられたともあるので、伊勢と江戸を行き来する人生だったとも考えられます。
 さて、このように栖原屋と関わりの深い川村六郎兵衛ですが、次に注目されるのは曾孫に当たる4代六郎兵衛(1820没)です。この人の妻は「北村三郎左衛門」という人の娘だったらしく、さらにその長男を「北村半兵衛」という家に入り婿に出していて、川村家の跡取りは、娘の川村なつ(1782年生まれ)として、その婿に「北村彦兵衛」の長男を予定していましたが、彼は1802年に亡くなりました。このように、川村家と北村家は二重三重に関わっているようなのです。そして北村彦兵衛は、栖原屋について詳しく調査されたサイト『北海道応援 歴史深堀りブログ』によると、1793年に栖原屋の雇人から蝦夷支配人になった北村彦兵衛だった可能性が高く、北村半兵衛家もまた栖原屋(北村)角兵衛の本家の有力な親戚だったようですので、どうも川村家と北村家はただの関係とは思えません。
さて、北村彦兵衛長男を失ったなつは、奥州盛岡田名部(たなぶ=今の青森県むつ市)の川嶌忠八という人を婿として、忠八は5代目六郎兵衛を名乗ったようです。つまり忠八六郎兵衛は東北出身なのです。そして先ほどの『北海道応援 歴史深堀りブログ』には、1826(文政9)年に雇人六郎兵衛を支配人とし、1827年に厚岸(あっけし)場所も請負ったとしています。この六郎兵衛は栖原松前支店の支配人につての資料に「川村六郎兵衛」とあり、忠八の六郎兵衛と同一人物であることは確実です。川村家過去帳には、忠八六郎兵衛は1833年に松前で亡くなったとあります。

 さて、ここまで川村家と北村家の関係を見てきましたが、この後驚くべき史料に出会いました。田名部について調べていると、南部藩の重要な支配拠点で、田名部七湊と呼ばれ、七か所の港が開かれた交通の要衝だったことがわかってきました。さらにその一つの大畑湊は、栖原屋が蝦夷に進出した拠点としていたところだったのです。そこで関係資料をウェブ調査してみると、青森県立図書館が刊行している『伊紀農松原(解題書目 第21集)』という本が目につきました。これは田名部の人で南部藩の給人(つまり藩から何らかの収入を得ている在地の有力者)として、長く田名部代官所下役を務めた菊池久左衛門成章という人の、1808(文化5)年に始まる東北から九州に至る壮大な旅の日記でなのですが、問題なのはその途中で伊勢に参宮した所の記録です。松坂に到着した久左衛門は、文化5年12月18日(旧暦)に「能左衛門を西黒部へやる、親類訪問のため」と、お供の能左衛門という人を松坂の西郊外にある西黒部に遣わして「大畑与左衛門より栖原彦兵衛」あての手紙を託しました。翌12月19日に能左衛門は、妻の実家の「栖原武兵衛」を連れてきます、そして20日朝に「栖原彦兵衛の二男三郎左衛門という若者」が「能左衛門妻の本家なるよし、老人二人」とともに訪問した、とあるのです。能左衛門の妻の実家、栖原武兵衛家は三郎左衛門家の分家だったようです。栖原は北村家の別名乗りなので、栖原彦兵衛と三郎左衛門は、すなわち北村彦兵衛と三郎左衛門と見て問題はないでしょう。ここでなんと、盛岡の人の旅日記と川村家の過去帳が結びついてしまったのです。
もっとも、時代から考えて、1808年に若者だった栖原三郎左衛門と1782年生まれの川村なつの母方の祖父だった北村三郎左衛門は同一人物とは考えられません。しかし遠来のお得意様に対して、どこにでもある北村姓より、珍しい姓で通りのいい栖原を名乗ることは容易に想像できます。そして興味深いのは、ここで栖原三郎左衛門が、彦兵衛の次男で代理として来ていることです。川村家過去帳によると、北村彦兵衛の長男は、川村なつと婚約しましたが、1802年に亡くなっています。つまり栖原三郎左衛門が彦兵衛の次男だということに符合します。そして栖原屋史料では北村彦兵衛が1793年に支配人になっていることと、栖原彦兵衛が1808年に若者だった息子を持っていたこと、また、支配人とはいえ使用人が「左衛門」つまり古代律令国家の左衛門尉に由来する武家風の名乗りは使いにくかったろうということを考えると、大畑与左衛門、つまり須原屋の重要拠点だった大畑湊の有力者が手紙を送った栖原彦兵衛とは、栖原屋支配人北村彦兵衛その人であり、北村彦兵衛の息子は父が襲名できなかった当主名の三郎左衛門を一代飛ばして名乗ったと理解できるのです。そして川村なつの祖父の北村三郎左衛門は、先代の三郎左衛門とも考えられます。つまり先代三郎左衛門の子供が彦兵衛と4代川村六郎兵衛の妻で、その子供たちが婚約していた、と考えられるのです。

つまり、北村彦兵衛は北村三左衛門家の出身で、三左衛門家は今の松阪市西黒部にあった栖原の有力分家で、栖原も名乗っていたとみられるのです。先に触れた初代川村六郎兵衛は、深川の寺に顕彰碑があるとされています(現在行方不明)。その発願者には5代目栖原屋角兵衛の他に多くの栖原姓が見られます。おそらく北村家は有力な使用人に暖簾分けする際に、栖原と北村の名乗りを許したのではないかと思われます。北村彦兵衛を出した北村三郎左衛門家もその一つで、紀伊から江戸、さらに陸奥の大畑を経て蝦夷地に至る海運の中間地点にあって、その間を往復して主家を支えるという重要な役割を負っていたものと見られます。
そして川村家も、初代川村六郎兵衛が栖原の事業拡大の重鎮だったこと、北村家の有力分家と何度も婚姻関係を結んでいること、栖原とゆかりの深い田名部から婿を取り、その忠八改め5代目川村六郎兵衛が栖原の支配人にまで出世し、松前で亡くなっていることから見て、北村三郎左衛門家と同格の、栖原家と深く関わった家ではないかと考えられます。しかし支配人として川村三郎兵衛の名が残されていることから見て、栖原や北村の名乗りはしていなかったように思われます。
 このように見てくると、面白いのは19世紀前半の松坂郊外の西黒部が、北村三郎左衛門家や川村彦兵衛家など複数の家を窓口に、紀州の栖原という大資本が蝦夷地や陸奥と深く関わるための拠点的な地域だったと考えられることです
 松浦武四郎が生まれたのは1818年、大畑の菊池久左衛門が松坂を訪れ、栖原屋支配人の北村彦兵衛に会った10年後のことです。そして大畑出身で川村家の婿になった五代目六郎兵衛は1826年に栖原家の支配人になり、1835年に亡くなっています。武四郎が松坂を出たのは1833年のこと。つまり松坂の北村家や川村家が蝦夷と最も深く関わりを持っていた時代に少年時代を送っていたことになります。
 武四郎の人格形成、特に北海道への興味が、松坂が実は蝦夷地と関係が深いところだったという環境と無関係だったとは考えにくいのです。
後年武四郎は、松前藩御用医師の付き人として蝦夷地に渡ります。その背景には栖原家との関係があったことも考えられるでしょう。皮肉なことに武四郎はアイヌを搾取する商人や松前藩を強く批判することになるのですが、そこには自分の故郷への複雑な想いがあったからかもしれません。

 いや、ここからは松浦武四郎記念館をはじめとした、武四郎研究者の皆様にお譲りすることにいたしましょう。松浦武四郎と北海道を結びつけたのは、松坂という土地柄だったのではないでしょうか。

[本来、年号(西暦)の順で表記するべき所ですが、年代関係が複雑なので、『伊紀農松原』の記述を除いて西暦(新暦)のみで年号を表記しました。そのため若干誤差があります。ご承知おきください。]

榎村寛之

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