第77話   斎宮に関わる大字小字(おおあざ・こあざ)の不思議

 斎宮跡には、大字小字があります。
と書くと、いろいろな意味で?という反応が返ってくるでしょう。
 まず、大字小字って何?と反応されるのは都会の方ですね。都会なら、〇〇町とか、その下の〇〇一丁目にあたるような、町や村の下の土地を区切る単位が大字、その下のさらに細かいのが小字です。
 たとえば斎宮歴史博物館の場合、多気郡明和町竹川五〇三の場合は、竹川が大字、五〇三が番地となるわけですね。
 このように、大字はまだわかりやすいのですが、小字は一般的にはなかなか表に出ず、役所で土地登記簿などに使われる程度です。ところが埋蔵文化財の場合、小字は今も割合に重要な意味を持っています。遺跡名を確定する場合、その遺跡がある小字名をつけて、どこかをはっきりさせることが多いのです。
 たとえば斎宮跡の発掘初期の頃、史跡西側の初期調査の報告書は「古里遺跡」として刊行されていますが、これは、大字竹川字古里、つまり古里という小字の名に由来しています。
 この古里は、今(江戸時代以降)、旧伊勢街道(参宮街道)沿いになっている竹川集落が昔あった場所だと言い伝えられているのですが、実際に古里遺跡からは鎌倉・室町頃の遺物も多く出ているので、歴史的根拠もありそうです。
 斎宮跡の史跡内には、御館(みたち:さいくう平安の杜の西側)、花園(はなぞの史跡内の初期斎宮跡より西側、祓川近く)をはじめ、斎宮と関係するのではないかという小字もあり、何と言っても、大字に斎宮があるのですから、歴史的地名はたくさん残っています。というか、そもそも大字、小字自体がそれぞれにその土地の歴史を負っているのです。
 ところがその内容には、いろいろなエッセンスが加えられ、歴史とは、伝説とは、といろいろなことを考える素材になるのです。

 それに関係して、最近知った面白い情報を一つ。
 鳥取県米子市から大山町にかけて、むきばんだ遺跡公園という所があります。考古学が好きな人には割合有名な、そう「聖地」のひとつ。伯耆の名山、大山の麓の孝霊山(大山を隠すような立地で、この遺跡からは大山は見えません)の尾根すじに、弥生時代の中期から後期の集落や四隅突出型墳丘墓、さらに時代が飛んで、古墳時代の前方後円墳や群集墳などが大量につくられていて、弥生時代には大きな溝に囲まれた用途不明の空間(文字通りの聖地?まであったという遺跡です。かつて久米宏さんが「ニュースステーション」で取り上げ、ゴルフ場開発計画で見つかったけど、開発業者も積極的に保存に賛同し、県立の遺跡公園になったという素晴らしい所。尾根の端に立てば晴れたら隠岐の島まで見えるという絶景で、足元には飛鳥時代の壁画が見つかった上淀廃寺がある米子市淀江町です。
 この遺跡、保存運動の始まりの頃は、むきばんだ(妻木晩田)という不思議な名前で話題になったものです。実はこの名は、妻木(むき)と晩田(ばんだ)という2つの字にまたがっているので付けられたものなのだそうです。そしてこの妻木という地名の由来が史跡公園の展示室にありました。これが驚きの内容なのです。
 鳥取藩士の松岡布政という人が編集し、寛保2年(1742)に成立した、『伯耆民談記』には、
 「光仁天皇の后がこの地の出身で、天皇の命によって「妻木」と呼ばれるようになった。
とある」というのです。
この原典は『伯耆民諺集』という名で国立国会図書館のデジタルライブラリーで見ることができました。そこでは、
この地から平城京に親の代わりに年貢を持って行った娘が光仁天皇に見初められて女御になったので、妻のふるさとということで年貢が免じられ、妻が来たところで妻木(つまき)の名を与えられ、今は「六木(むき)」という。」としています。「つまき」が転じて「むき」になり、それに伝承の妻木の漢字をあてた、ということなのでしょう。
 おおっと、光仁天皇のお后、つまり皇后といえば、聖武天皇の娘で斎王でもあった井上内親王以外にはいませんですよ。それが民間の出身なんですか。
 ちなみに鎌倉時代に編まれた『一代要記』という天皇別関係者辞典みたいな本でも、光仁天皇は皇后井上内親王、夫人高野新笠、夫人正三位藤原曹司(左大臣藤原永手の娘、曹司は私室の意味で、よく時代劇などで殿様のお手付きの人を「お部屋様」というのと同じような使い方、本名不詳)、従三位紀宮子、尚侍正三位大野仲子とあるのみで、室町時代後半には成立していたらしい『皇太暦(歴代皇記とも)』には皇后井上、夫人高野、夫人紀宮子、尚侍大野仲子とあります。宮人など身分の低い妾的な女性は他にもいたようですが、后と言われる女性は、やはり皇后井上内親王しかいないのです。

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 もちろん実在の井上内親王が民間の出身ということは考えにくいのですが。ここで光仁天皇やその后とかが出てくるのはなかなか面白いのです。
光仁天皇といえばその前の称徳天皇の姉妹である井上内親王の婿で、聖武天皇系の天皇候補がいなくなった後、妻の縁から天智天皇の孫なのに天皇に担がれた、という人です。その息子が千年の都、平安京に遷都した桓武天皇ですから、それなりに有名な天皇だったと考えられます。
また、この千話一話の第63話「謎の『宮子内親王』は意外な有名人」でもちらっと触れたように、井上皇后の名は、そののち非業の最期を遂げたため、怨霊として有名で、江戸時代後期に編纂されたとみられる『古今貞女美人鑑』という変わり番付の中にも見られます。また、中公新書『斎宮―伊勢斎王たちの古代史―』でも、姫路城に現れる化け物「長壁姫」は井上内親王の娘、という伝説を紹介しており、怨霊としておそれられた井上内親王は前近代でもかなりの有名人だったようです。
しかし怨霊として恐れられた人を大出世した人になぞらえるかなあ、という疑問もやはりあるのです。そこで別の可能性も考えてみました。
まずは高野新笠です。高野新笠は光仁天皇の夫人(ぶにん、皇后・妃に次ぐ身分の天皇の妻)ですが、桓武天皇の母で、息子の即位に伴って皇太夫人になり、亡くなった後には皇太后、さらに太皇太后を追贈されています。渡来系氏族和(やまと)氏の出身で後世に大きな影響を残している、という点で、高野新笠は大陸に近い山陰地方の出身、とする方がそれらしいかも。
 ところが妻木の伝説についてはまだ続きがあるのです。『朝妻縁起』という江戸時代末期の本になると、件の美女は文武天皇の后となっているのです。つまり光仁天皇が絶対、というわけでもないわけです。文武天皇の后というと、公的に記録されているのは藤原不比等の娘で聖武天皇の母の藤原宮子、あとは妃の紀竈門娘と石川刀子娘くらい。おや、ここで、光仁天皇夫人の紀氏の「宮子」と、文武天皇夫人の藤原氏の「宮子」の二人の宮子が出てきましたね。

 一部で有名な話ですが、藤原宮子については、和歌山県日高川町の道成寺に、紀伊の海女の出身とする伝説があります。もとより信じがたい話ではあるのですが、面白いと思うのは、「宮子」という名前です。第63話で取り上げた度会氏出身とされる架空の「八代目の斎王」も「宮子(宮子内親王・渡会宮子)」でした。もしかしたら、美女が召し出されて大出世する物語があちこちにあり、ある所によっては「みやこ」と呼ばれるようになった、とも考えられないではありません。そして妻木では美女伝説が、同様の「宮子伝説」から連想して、文武天皇の話になったのかもしれません。とすると、光仁の伝説の場合は、紀宮子から連想したのかも。
妻木の場合、さらに飛んで、孝霊天皇(伝説上と理解できる第7代天皇、吉備氏の祖とされるためか、中国地方に時々その伝承が見られる)の后とする場合もあり、もともと夫はどの天皇でもよかったような気もします。都へ上って出世するシンデレラストーリーの到達点は后(藤原宮子)でも斎王(渡会宮子)でもよくて、その女性が、ある時期に「みやこ」と呼びならわされたり、国学が盛んになり、地域と天皇とのつながりを求める気持ちが強くなったことで、江戸時代中期以降に特定の天皇と結びついたりして、いろいろな伝承になるのかもしれないな、などとも思うのです。
というわけで、むきばんだ遺跡の小字調べから、何やら斎宮ともちょっとかかわりのありそうな伝承に行き当たりました。考察は完結しないまま、可能性にとどめましょう。
というわけで、小さな地名とはいえ、大変面白い由緒をしょっていることがあるので、あだやおろそかにはできないのです。

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榎村寛之

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