第75話  「斎宮のまわりにも魅力がいっぱい」展から。

斎宮歴史博物館では平成最後の夏の企画展として「斎宮のまわりにも魅力がいっぱい」を開催しています。この展覧会は、斎宮という施設を受け入れた風土と、斎宮が来たことにより、その風土にどんな影響が現れたのか、そして斎宮がなくなった後の歴史にどんな影響を与えたのか、ということを考えてみようと思って始めたのですが、いざ始めてみると新しい事実が出てくる出てくる、また以前から言われていたことの意味が深まる深まる、そして新たな謎が出てくる出てくる、いや非常に面白い展覧会になっています。その中からいくつかの話題をご紹介しましょう。

@東京国立博物館所蔵の弥生土器 美しい土器が語る三重の考古学ことはじめ
 今回の目玉の一つは、現在は東京国立博物館に所蔵されている、パレススタイルと呼ばれる弥生時代後期〜古墳時代初期の壺の里帰りです。およそ100年前に当時の斎宮村で発見された、町内で記録されている最も古い埋蔵文化財の一つで、ほとんど復元がない完全な形。細かい装飾と赤の塗色の痕跡により、造られた当時の美しさをよく伝えている名品です。弥生時代の特注高級品といって差し支えないでしょう。
この壺の特徴は地色の薄茶色に塗色された朱色のコントラストだと思うのですが、この形の壺の本家の愛知県では、地色はもっと白色に近いもので、赤白のコントラストになるそうです。地色の違いは、この地域の土を使ったため、つまり今の愛知県地域の技術を持った人が、三重県のこの地域の土を使ったことによるのだそうです。
そして期間中の調査により、この壺がいつ三重県から出て行ったのかもわかりました。『三重県史談会会誌』という明治43年(1910)に創刊した三重県初の郷土史研究史の巻1-2、つまり最初の年の第3号に、三重県近代郷土史の第一人者だった大西源一(1883-1962)の「北勢旅行記」という文章があり、その中に、8月23日に東京国立博物館の歴史課長だった高橋健自(1871-1929)を案内して北勢の桑名・多度などの地域を踏査した後、今の多気町相可にある大西氏の自宅に宿泊させ、その時に金剛坂村(現・三重県多気郡明和町金剛坂)の櫛谷吉之助氏を訪れ、弥生土器の壺などの割愛を受けたという記述があるのです。
つまり今から108年前の8月23日に、この壺は明和町を出て行ったのでした。まさか会期中に旅立ち記念日が来るなんて考えてもいませんでした。そして108といえば、除夜の鐘の百八煩悩だったり、『水滸伝』の梁山泊百八人の頭領だったり、なんとなく気になる数字でもあります。なにやら因縁めいていますね。

金剛坂出土パレス式土器

金剛坂出土パレス式土器

A斎宮を受け入れた場所とは 方形周溝墓と群集墳
 この金剛坂出土の壺は、弥生時代の方形周溝墓に捧げられたものではないかという説があります。斎宮跡は、櫛田川の右岸に南北に広がる洪積台地の西辺部分に立地しているのですが、その周辺には方形周溝墓や5〜6世紀の群集墳などが、かなり密に分布しているのです。金銅製頭椎大刀が出土した7世紀の、つまり全国的に見てもとびぬけて新しい前方後方墳として知られる坂本1号墳がある坂本古墳群もその一つです。
つまり、1〜3世紀頃と、5〜6世紀頃には、このあたりはお墓が密集した地域だったようです。そしてこれほどお墓が見つかっているのに、それを造った人たちがどこに住んでいたのか、今の所よくわかっていないのも面白い所です。
もともと言われていたことですが、台地縁辺部には古いお墓が累々としていて、その一角を切り開いて7世紀〜8世紀の斎宮が造られた、ということなのでしょう。そもそも台地の端っこに造られたお墓とは、だれに、どこから見られることを意識していたのでしょうか。じつは、弥生時代のお墓は、台地の上にばかりあるわけではありません。段丘を下った櫛田川や祓川の周辺では、川が氾濫をくりかえし、その結果砂洲の高まりがあちこちにできるようになっていました。そうした所にも方形周溝墓が見つかることがあるのです。7〜8月にエントランスホールの逸品展で展示していた、斎宮跡から出土した弥生時代の土器も、そうした所の遺物ではないかと考えられています。
 斎宮が置かれた立地は、伊勢神宮領の西端で交通の拠点になりうる所、つまり櫛田川氾濫原から洪積台地に上がるあたりのもっとも標高の高い地域を選んだ、と考えるのが最も妥当だと思います。そして、そのあたりがどのような環境だったのか、ということからさらに色々なことが考えられます。たとえば死の穢れは気にならなかったのか、とか、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、方格地割が造られた史跡の東側ではほとんどこの時代の遺跡が見つからないのはなぜか、とか、議論すべきことはまだまだたくさんあるのです。

坂本1号墳出土頭椎大刀

坂本1号墳出土頭椎大刀

B斎宮をめぐる墨書土器たち 文字文化の不思議な展開
 斎宮が全盛期を迎えていた9世紀頃、斎宮周辺では土器に興味深い字が書かれたものがいくつも見つかります。斎宮の西側、櫛田川の向こう側や、そのやや上流で発見された「神宮寺」(8世紀に伊勢神宮近くに置かれていた神宮寺と関係するのか?)、と書かれた土器(松阪市・大川上遺跡)や、読めない字を中央と上下左右に書き散らした呪いと見られる土器(松阪市・朝見遺跡)、追儺の祭に出てくる方相氏という超人を描いたと見られる土器(松阪市・鴻ノ木遺跡)などです。また、今回は展示していませんが、櫛田川河口の南山遺跡(松阪市文化財センター「はにわ館」でこの期間に展覧会開催中)でも、文字を刻んだ土錘(魚を獲る網のおもり)など、興味深い文字資料が出ており、文字文化が斎宮周辺の広い範囲で展開していたことがうかがえます。
 そして12〜13世紀頃の中世土器では、斎宮跡の南側、寺垣内遺跡で出土した「斎宮垣内之内」と書かれた土器が注目できます。実は「斎宮」と書かれた墨書土器は、斎宮跡でも一点も出土していないので、極めて面白い上、この時期の斎宮についてはまだ不明な事が多いので、極めて重要な史料となるものなのです。そしてもう一つ、明和町の海側、南勢バイパスと呼ばれる国道23号線より少し海側で見つかった「十」「百」などと書かれた土器も地味ながら注目できます。同じ文字を書いた土器が津市の安濃津遺跡群でも見つかっており、いまだ発掘されていない、明和町内の中世の港に関わる土器の可能性が高いものなのです。
 このように斎宮の周りでは平安時代以降、他の地域では見られないような個性的な墨書土器がしばしば見つかることがあります。それはこの地域が斎宮や海岸沿いの港を核として、新しい情報を獲得しやすいネットワークを持っていたことを示しているのです。

安養寺跡出土青磁香炉

安養寺跡出土青磁香炉

C斎宮が無くなってからの二つの重要な核 安養寺と轉輪寺
 14世紀に斎王制度がなくなった頃、明和町内には新しい宗教センターが生まれていました。伊勢神宮に向かう街道沿いの上野地域に建立された、当時最新の仏教の一つだった臨済宗(禅宗)の寺院、安養寺です。時は永仁五年(1297)、斎王の群行が絶えて25年ほど後の事でした。この寺院は戦国時代に兵火で焼失して、その後近隣の現在地に移転しますが、もともとは東西170m、南北180mもある大溝で囲われた区画の中にある大寺院でした。この発掘調査では、13世紀、中国元の時代に、北宋時代から高級磁器を生産する窯として知られた浙江省(上海市の南)にある龍泉窯の製品と見られる直径30pに及ぶ大型の香炉が出土しています。県内でも類例がない高級品、さすが五山十刹に次ぐ諸山のランクを持つ寺院は持つものが違います。
そして安養寺には、開祖の癡兀大恵(ちこつだいえ、佛通禅師の別名あり)の遺品があって、三重県指定文化財になっています。中でもパッチワーク・キルトのような袈裟はご注目。デザインも良いのですが、考えてみれば鎌倉時代の衣装はものすごく珍しいのです。消耗品で虫も喰いますから、貴族の装束でも鎌倉時代のものはないんじゃないでしょうか。戦火にも耐え、奇跡的に残ったすごい貴重品なのです。
 一方室町時代に開山由来を持つ轉臨寺は、今は津市専修寺を本山とする浄土真宗高田派の有力寺院になっています。こちらも高田派の有力寺院で、真宗の根本経典である浄土三部経、無量寿経、観無量寿経、仏説阿弥陀経の三つのお経を絵にした曼荼羅が伝えられています。今回展示しているのはそのうちの「無量寿経曼荼羅」と「観無量寿経曼荼羅」です。「観無量寿経曼荼羅」は17世紀後半の天和年間に造られたもので、奈良時代以来と言われる「当麻曼荼羅」の形式を踏まえた、無量寿仏、つまり阿弥陀如来を「観」(心で認識し、形として思い描くこと)するための繊細で美麗な浄土変相図(極楽絵のこと)です。そして「無量寿経曼荼羅」は阿弥陀仏の極楽世界と六道輪廻や人生の苦しみを対比させるように描いた作品ですが、この作品、高田敬輔という絵師が17世紀後半に描いた浄土変相図を基にしているらしいことがわかってきたのですが、この高田敬輔とは、京で活躍し、後に近江(滋賀県)の日野に隠棲した人物で、明和町にも関係の深い奇想の絵師、曾我蕭白の師匠なのだということがわかりました。意外な所で明和町とのつながりが見えてきたのです。
 この展覧会、地域に密着しているだけに、色々な新しい情報が入ってきています。明和町ができた昭和33年(1958)に、一瞬だけ神郷町だったことが公文書で証明されたり、地域住民の方には、本籍地が神郷町の方もおられる、なんていうこともわかってきました。どんどんわかる新事実、まさに「斎宮のまわりにも魅力がいっぱい」なのてす。

榎村寛之

ページのトップへ戻る