第73話  斎宮千話一話  斎王たちのおなまえっ!

六十人以上いる斎王には面白い二つの特徴があります。一つは、ある時を境に名前のパターンが変わること。もう一つは、同じ名前の人がいないことです。
 斎王の名前は、平安時代初期、嵯峨天皇の時代の仁子内親王からガラッと変わります。ここからは「〇子」がずっと続いていくのです。
 嵯峨天皇は子供たちの名前に一定のルールを設けた天皇です。男の子には仁明天皇になった正良をはじめ秀良、業良など、「〇良」親王、男の子で臣下に下す「臣籍降下」を受けた子は、「源」姓で、大臣になった信・融・常など一文字、そして女の子には、淳和天皇の皇后になった正子、芳子、繁子など「〇子」内親王で、変わっているのは初代賀茂斎王になった、三文字名前の有智子内親王、女の子で臣籍降下を受けたのは、藤原良房の妻となった潔姫をはじめ、貞姫、善姫など「源〇姫」です。
 このうち「良」は最近まで中国で見られた「輩行字(はいこうじ)」(同族で同世代の人が二文字の名前の一文字を共通する漢字にすること。たとえば作家の魯迅の本名は周樹人で、その弟は周作人、この場合「人」が輩行字、孫文夫人は宋慶齢で、その姉は宋靄齢、妹は蒋介石夫人の宋美齢で、「齢」が輩行字)と同じ意識だと考えられます。こういう意識は平安時代にはしばしば見られ、たとえば醍醐天皇の皇子は寛明(朱雀天皇)、成明(村上天皇、)保明、重明、高明など、村上天皇の皇子は憲平(冷泉天皇)、守平(円融天皇)広平、具平、為平
などです。しかし平安時代後半にはこのルールはすたれてしまい、平安時代後期の後冷泉天皇あたりから「仁」が優勢になり、鎌倉時代の土御門天皇以降、持明院統、北朝の天皇を経て現代まで、天皇家については、裕仁、明仁、徳仁など「仁」の付く名を世代を超えて共有していくというルールができたようです。ただし、亀山天皇の子孫である大覚寺統や南朝の系統の天皇では、このルールは後宇多天皇の子供世代から崩れ、ふたたび輩行字を使うようになります。たとえば後醍醐天皇の子供たちは義良(後村上天皇)、宗良、護良、恒良と「良」を輩行字にしています。

男性皇族の名前はこのように約400年の間、変化がありましたが、女性の名前は嵯峨天皇以降、世代を超えて「子」が使われるようになりました。女性の名前が先に安定したのです。
 ところが女性の名前にはもう一つ大きな特徴がありました。「子」が天皇家の独占にはならなかったのです。もともと奈良時代に「藤原宮子」のような例があり、それより古くも伊賀采女宅子娘(天智天皇に仕えて大友皇子を生んだ采女)のような「〇このいらつめ」という用法や、蘇我刀自古郎女(蘇我馬子の娘で聖徳太子の妃、山背大兄皇子の母)のように「古」を「こ」と読んで女性の名につける事例などもあったので、必ずしも皇族の独占物とは思われず、藤原明子や橘嘉智子など、貴族でも後宮に入るような人は「子」がつくのがふつう、というようになっていったようです。
 さて、というわけで、斎王の名前が「子」ばかりになるのは、嵯峨天皇が始めた命名が、いわば一般常識として広がっていったことによるようです。つまり斎王だけではなく、皇族の女性も貴族の女性も、子が一番多かったから、ということによるのでしょう。しかしこうした名前は、実はほとんど使われていません。公文書に名を載せる時などに必要だっただけで、日常に名を呼ぶことは失礼にあたると考えられていたからです(そのため、社会に出ていなかった女性は、貴族でも幼名だけで、〇子という名は必ずしも名乗っていなかったようです。ちなみに内親王の場合は社会に出ていなくても、平安時代には内親王宣下といい、公文書で「〇子内親王」と名付けられるので、全員名前がありました)。そして〇子の〇字は縁起のいい名前を付けて、文字で書く時に区別がつくようにしています。だから「善子」「良子」「徽子」など、「よい」意味を持つ漢字が選ばれることが多いのです。そして縁起のいい字は数が多いので、「よしこ」さんとしか読めない名前が多いのに、同じ漢字の名前がない、ということになるのです。

 さて、それでは「子」の以前の名前はどうだったか。たとえば仁子内親王の直前の斎王を見ると、酒人・朝原・布勢・大原、その前の有名どころを見ても、大来や井上など、現在なら名前とは思えないような名前ばかりです。ここにはどういうルールがあるのでしょう。
 ごくわかりやすい例として、桓武天皇の娘で、桓武朝最初の斎王だったの朝原内親王の例があります。彼女の乳母には朝原大刀自という人がおり、桓武天皇との調整役をしていたことがわかっています。内親王には乳母が三人いるのですが、この人が筆頭乳母だったようです。大刀自とは大女将とでもいう名前で、朝原氏の女性の中でもナンバーワンの立場にあった人と見られます。朝原氏は忌寸というカバネ(朝臣・宿祢など、その氏族の性格を表わす表象)を持つ氏族で、秦氏の系統の渡来系氏族です。桓武天皇は母の高野新笠が渡来系氏族であり、渡来系氏族を重視しました。とくにこの朝原氏は秦朝元という貴族の孫の朝原道永を祖とするという系図があり、秦朝元は桓武天皇の寵臣であった藤原種継の外祖父にあたるので、道永は桓武に近い立場の人物ということになります。彼は平城天皇(朝原内親王の異母兄)の皇太子時代の先生(東宮学士)でもあり、朝原氏は桓武天皇に近く仕えた小規模氏族ということができるでしょう。
 このように、もともと皇族の名前は、その皇族を育てた乳母の氏族に関わる名前であり、天武天皇こと大海人皇子なら凡海(おおしあま)氏が育てた皇子、その皇子の草壁皇子なら日下部(くさかべ)氏が育てた皇子、舎人親王は舎人連(とねりのむらじ)という氏族がいるので、その氏族と関わっていると見られます。また、中にはその人に関わる地名と見られるものもあり、天武の子では、備前国の邑久(おおく)郡で生まれたので大来皇女、大津京で育った(または筑前国の那大津で生まれた)ので大津皇子などの例もあります。また、地名でもあり氏族名でもある例としては高市皇子、十市皇女などがあります。
つまりもともと皇族の名は、現代の感覚でいう個人名ではなかったのです。
 さて、これらの名前の読み方はほとんどわかっていません。地名や氏族名はそのままで読むのでしょうが、高市・十市だと地名では「たかいち」「といち」ですが、万葉集の慣例では「たけち」「とおち」と読み慣わしているように、微妙な読み方については問題は多いのです。

  で、最後に意外に思われるかもしれませんが、この人の読み方について。
聖武天皇の娘で、斎王として、また光仁天皇の皇后として、そして怨霊として恐れられたことで知られている、
 「井上内親王」です。
 普通なら「いのうえ」と読む所ですが、なぜか慣例的には「いがみ」と読むことがあります。この「うえ」という字が意外に曲者なのです。
 井上とよく似た古代の有名な氏の名として「山上」があります。山上憶良で知られ「やまのうえ」と普通には読まれています。だから「井上」も「いのうえ」だろう、ということになるのですが、ところがそれはあくまで『百人一首』の世界の慣例的な読みで、『万葉集』段階でそう読まれていたとは限りません。実は山上憶良が正史(国家が編纂した歴史書)の『続日本紀』に出てくるところが三か所だけあり、そこでは「山於憶良」「山上臣憶良」「山上臣憶良」と出てくるのです。そして「於」を「うえ」と読むことはできません。さらに大和国には「山辺郡」があり、ここから山上氏が出ているとする記録もあるので、もともとは「やまのへ(べ)」氏と読まれていた可能性が高いのです。
 そして「井上」氏という氏族や地名もあり、それは「井於」と書く場合もあるのです。とすれば、「井上も「いのうえ」ではなく「いのへ」、音通して「いのえ」と読む可能性が十分にあるのです。少なくとも「於」は「かみ」とはやはり読みにくいと思われます。
 このように、あたりまえの名前に見えても、古代の名前はなかなかに手ごわいのです。ちなみに斎王にも、淳仁天皇の時代の斎王として「山於女王」の名が平安時代の文献『一代要記』に見られます。館では「やまのうえ」と読んでいますが、こちらも「やまのへ」なのかもしれません。

 〜斎宮歴史博物館館蔵品展「おなまえっ!から見る平安時代」平成30年3月21日(水)、春分の日まで開催中〜




 
 

榎村寛之

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