第72話 大淀と鶴の稲のお話
『日本遺産 祈る皇女斎王のみやこ 斎宮』を構成する文化財の中に「カケチカラ発祥の地」というものがあります。説明では「神嘗祭に初穂の稲束を伊勢神宮の内玉垣に懸け、国の永遠の繁栄を祈る懸税(カケチカラ)行事の発祥の地」とあります。
この伝説の根拠は、鎌倉時代に編纂された『倭姫命世記』という文献にあります。つまり伊勢神宮に関わる中世の神話です。
この神話では倭姫命は崇神天皇の時代から35年ほど各地をさまよい、ついに垂仁天皇二十六年に伊勢神宮を定めたことになっているのですが、その翌年のこと、鳥が大きな声で鳴くので、大幡主命らを派遣して調べてみると、志摩国の伊雑(志摩市磯部町あたり)の葦原の中に、根元は一本で千本の穂が実っている変わった稲があり、白いマナヅルがそれをくわえて飛んでいた。それを伊佐波登美神に抜かせて、伊勢神宮の御前に懸けさせ、伊雑には摂宮(伊雑宮)を設けたとあります。そしてその翌年の秋、やはりマナヅルが皇太神宮(内宮)に北の方から飛んできて日夜鳴いているので、倭姫命が調べざると、「佐佐牟江宮の前の葦原」に、やはり根元が一本で八百の穂がある稲をくわえて鳴いていたので、吉祥として皇太神(アマテラスオオミカミ)の御前に懸けさせ、鶴のいた所に、八握穂社を造らせた、というものです。
つまり、「カケチカラ発祥の地」というのは、伊雑と多気で見つかった不思議な稲のうち、多気の稲が見つかった所なのです。葦原に稲が生えるということはまずありえず、実に神話だなぁ、という話なのですが、葦(ヨシ)はヨシズをはじめ様々な道具に加工できるので、古代・中世において生活のために絶対に必要な植物で、稲と形が似ていることや、稲刈りとともに芦刈りが重要な季節の集団作業だったことなどもあり、「葦原中つ国」とか「豊葦原瑞穂の国」なんていう日本(正確には東北南部から九州南部まで)の古名もできたわけですね。
さて、この神話、『日本書紀』や『古事記』の中には出てきません。また、九世紀初頭に編纂された『皇太神宮儀式帳』(伊勢神宮から朝廷に提出された神宮の運営マニュアル)の神宮起源伝承にも出てきません。しかし、実はさらに原典ともいうべきものがあります。天暦三年(九四九)に神祇官が村上天皇に上奏した「新嘗祭と月次祭神今食の忌火御饌」の起源神話です。
その上奏では、
古い記録によると、「倭姫皇女」が伊勢大神の御杖代として、壱志郡の斎片樋宮にいた時に、三隻の船に乗って佐志津に向かい、舟をとどめた時、葦原で日夜鳥が鳴いていたので、人をやって調べさせた所、一羽の鶴がおり、その所で「八根稲穂の長さ八握で、瑞稲と言えるもの」が見つかったので、その米を折木を刺し合わせた枝で炊いて神に捧げた、これより神嘗の祭が始まり、その時の火を特別に作り、忌火という。
としています。
鶴が稲穂をくわえていたとするのは『倭姫命世記』と共通しますが、稲の形は全く違います。また、場所も異なります。壱志郡の斎片樋(「いつきのかたひ」または「いみかたひ」と読めます)宮は、これより『皇太神宮儀式帳』にも見られる、倭姫命が一時期滞在したという「藤方片樋宮」のことだとすると、今の津市の南側、藤方から高茶屋あたりのイメージでしょうが、佐志津(「さしづ」または「さしのつ」と読むのでしょうか)がどこなのかがわかりません。
この神話自体は平安時代の貴族たちには割合に知られていたようで、藤森馨氏のご研究「真名鶴神話と伊勢神宮の祭祀構造」(『国立歴史民俗博物館研究報告』148所収 2008年)
によると『年中行事秘抄』(鎌倉時代の儀式書 作者不明)には全く同じ文章が見られ、『師光年中行事』(鎌倉時代初期の貴族、中原師光による儀式書)にも引用されています。一方、同じ鎌倉時代でも、中世日本紀と呼ばれる中世神話の一つ『天照太神御天降記』にはかなり変わった形のものが見られます。
天照大神が伊勢神宮に降りると、巽方の空で鶴が二羽鳴いて寿ぎ、穂をくわえて志摩国の伊佐和の神戸に飛び降りた。そこに「伊佐和の野宮」を鎮座させ、その鶴(末那鶴)を於保止志神(大歳神)として祀り、天見通命という神が、そのくわえていた稲穂で御飯を造り始めた。そのため、その神(の子孫)を荒木田氏と言い、その田を抜穂の神田と言い、宇治郷にある。
これは、最初に紹介した『倭姫命世記』に出てくる、「伊佐和」、つまり伊雑の懸税稲起源神話の元であることはおわかりいただけるかと思います。そしてこの神話は、内宮禰宜の荒木田氏の由来を語っているのです。しかし『倭姫命世記』では、鳥の声を探しに行った「大幡主命」は、外宮禰宜度会氏の祖先とされている人物なのです。前述の藤森馨氏は『倭姫命世記』の真名鶴伝承について、「内宮神話である真名鶴神話は巧妙に外宮神話に書き換えられたのである」と指摘されています。つまり「平安時代前期にはあった瑞稲の伝承は最初に内宮の伝承として伊雑に移され、その後に外宮の伝承として佐佐牟江にも移された」ということのようです。佐佐牟江のカケチカラ(懸税)稲の伝承はここではじめて出てくるので鎌倉時代に造られた伝承のように見えます。
しかし大きな問題なのは、天暦三年(九四九)の神祇官上奏では、不思議な稲が取れた所を、伊雑とも佐佐牟江ともしていないことです。そして本来の神話は、『天照大神御天降記』とも『倭姫命世記』とも構成が違い、内宮が伊勢市内にできる以前に神宮の神嘗祭が成立したとしているのです。そして、残念ながら肝心の「佐志津」がどこかはわからないのです。
前後関係から考えると、
@ 『皇太神宮儀式帳』では藤方片樋宮の次に倭姫命が移ったのは飯野高宮(松阪市周辺)とされている
A 片樋宮について、江戸時代の『伊勢参宮名所図会』では片樋は「阿坂にあり。嬉野といふ所これなり」としている。
B 平安時代後期には成立していたと見られる『大同本紀』(本体は散逸し、『神宮雑例集』や『皇字沙汰文』などの鎌倉時代文献に部分引用されて残るのみ)でも、志摩国に倭姫が向かうのは伊勢神宮成立以降としている
などから見て、佐志津が志摩国にあったとは考えにくい所です。むしろ佐志津の場所としては、藤方より伊勢に近い地域、現在の津市南部から松阪市の間くらいが想定されるでしょう。そして佐志「津」で、舟をとどめたというのですから、おそらくラグーン(潟湖)形の港なのでしょう。そうした港はこのあたりにかなりありましたが、葦が生える所となると、それなりに大きな川の河口近くの汽水域ということになるので、松阪市嬉野町近く、雲出川や櫛田川などの河口部にあった港と考えるのが自然かもしれません。そしてラグーンの港は、砂の堆積により使えなくなって放棄されることもよくあります。佐志津は古い港で、地形が変わったためなくなってしまったのかもしれません。あるいはもっと単純に、「さし」が「ささ」になっただけで「さし」の津(佐志津)と「ささ」の江(佐佐牟江)は、同じ場所だったのかもしれません。
このように考えると、佐佐牟江の真名鶴の伝承は、もともと佐志津と港についての伝承だったものを、比較的近くで、『皇太神宮儀式帳』にも見られた佐佐牟江のこととして再構成したのが『倭姫命世記』だと考えられそうです。
とすれば、カケチカラの伝承は、平安時代の前半には松阪から明和町周辺にあったというのが正しいような気もします。
そして鎌倉時代初期には大淀と鶴を関連付けた和歌が見られるようになるのも興味深い所です。『歌枕名寄』という歌集に見られる
大淀の浦に群れ居る友鶴の遊ばむ方の空にのどけき
という歌です。佐佐牟江の地名は本来の大淀の津だったと推定されているラグーン(旧・笹笛川の堆積によって形成された入り江)の岸辺だったあたりに残っています。つまり佐志津の鶴が佐佐牟江、すなわち大淀の鶴と見られるようになったのは、佐志津と佐佐牟江が別のところとしても、意外に早く、平安時代末期頃と見られるのです。
そして後世のものではありますが、『伊勢参宮名所図会』の大淀の挿絵にも鶴が描かれており、大淀には鶴は付き物と見られていたようです。
このように、平安時代前期の佐志津の鶴の伝承が佐佐牟江、つまり大淀に移動し、瑞稲とされた稲の形が代わり、大淀と鶴の伝承が成立してきたようなのです。一つの伝説を追いかけても、平安時代から江戸時代に至るまで、いろいろと面白い問題が隠れているのです。
『伊勢参宮名所図会』に見られる大淀の鶴
榎村寛之