第71話  斎宮と鵺(ぬえ)の伝説

最初にお断りしておきますが、斎宮には鵺がいたと私は信じています。その証拠をご覧に入れましょう。
 はいっ。

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 これが鵺、トラツグミという鳥です。博物館のガラスにぶつかってぼーっとしているところを撮影させていただきました。今でもいるのだから、平安時代には当然いたはずです。
 『平家物語』の「鵺」の段では、近衛天皇の寝所を騒がせ、源頼政に退治された怪物は、猿の頭に虎の手足、狸の身体に蛇の尾で、声は鵺に似ていた所から「鵺」と呼ばれるようになったまでのことで、本当ならば「猿虎狸蛇(エンコリーダー、と読むと怪獣みたいに見えません?)」とでもいう化け物でした。
 ところが三重県からそう遠くない所に、これによく似た化け物がいたという伝説が実際にあるのです、場所は岐阜県の奥美濃地方、長良川上流の高賀山という霊山の周辺です。ここで退治されたのは「さるとらへび」、狸がありません。そして退治した英雄の名は藤原高光。
 私がはじめて高賀山を訪ねたのは今から二十五年ほど前のことで、この名前に大変驚かされたことを記憶しています。藤原高光は三十六歌仙の一人、右近衛少将という武官ですが、右大臣藤原師輔の八男、れっきとした摂関家のお坊ちゃまです。それが右少将高光と言われるのは、少将に在任していた時に突然出家するという不思議な人生を送ったからなのです。
 しかし高光という名前はそれほど珍しくありません。まして藤原氏はいやになるほどいるわけで、藤原高光という名前は偶然の一致かなぁとも思っていたのですが、五年ほど前に再訪して驚きました。藤原高光はすっかり、藤原師輔の子ということで統一されていて、高賀神社には「さるとらへびを退治する藤原高光」の像まで造られていたのです。
 ちなみに藤原高光の怪物退治についての地元での最古の記録は、文治2年(1186)の記録を応安3年(1370)に写し、さらに永享11年(1439)に写し、永正14年(1518)に写したものを文化9年(1812)に写したという奥書がある『高賀宮記録』という本です。その内容はというと、
「奈良時代の霊亀から養老年間に、都で怪しい光が飛び回ったことをきっかけに、光が飛び去った東北方向に高賀山本神宮が置かれ、大行事神社と呼ばれました。そして承平3年(933)に藤原高光の妖怪退治が行われます。その怪物は『鳴き声は牛に似ていて山洞にその声が響きとても恐ろしい姿で、髪の毛は赤く、牛のような角を持ち、赤い口を開き、目は金色に光る、背丈は三メートルほどの大鬼』だとしています。つまり古い伝説では「さるとらへび」ではないのです。この怪物退治に加護をしたので、高賀山大本神宮は高賀山大行事大明神と改称されました。その後ふたたび魔物が暴れたので高光が派遣され、虚空蔵菩薩と神々の加護によって、一丈あまりの雉の形をした大鳥の魔物を鏑矢で退治することができ、三所の岳々神社、弓矢神社、白羽神社、乙狩神社、形智神社、粥川神社、藤谷神社、岩屋神社、などが整備され、討伐に使った剣や鏡や矢を大本宮、峰稚児神社、福部ケ嶽大明神、星宮大明神の御神体としました。そして高賀宮は、高賀宮最上根元神社の名を授かり、広く信仰を集めたのでした。
というものです。

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 それが現在の伝説では瓢(ひさご=ひょうたん)に化けた怪物を射落としたことになっており、その本性が「頭が猿、体は虎、尾は蛇」の「さるとらへび」とされています。確実な最古の資料は安政5年(1858)の絵馬のようです。どうやら「さるとらへび」は江戸時代の創作物のようです。
 さて、一方、退治した方の藤原高光(939-994)は、斎宮とゆかりの深い人物です。彼の母は朱雀朝の斎王だった雅子内親王、つまり斎王を母とする珍しい貴族なのです。そのため、父、師輔の死の直後(961年)、わずか数え21歳で世をはかなんで出家し、世間を嘆かせた、という内容の『多武峰少将物語』という歌物語が造られたほどの事件となったのです。 
 彼は比叡山横川の良源のもとで出家して如覚と称します。延暦寺には後に天台座主になった尋禅という同母弟がおり、彼を頼ったと見られますが、良源と尋禅の師弟関係に割り込む事をはばかり、大和国多武峰の妙楽寺(明治の廃仏毀釈で廃されて今は談山神社)に移住、良源の弟子である増(蔵)賀を迎え、妙楽寺を再興します。いうまでもなく妙楽寺は天台宗、そして大和といえば藤原氏の氏寺、興福寺の所在する所で、興福寺は法相宗、さらに興福寺や東大寺などのいわゆる南都仏教は真言宗の影響が強いのです。そのため、中世を通じて妙楽寺と興福寺は何かと対立して、しょっちゅう武力紛争も起こしています。その責任者はこの人です。
 さて、ここまで読んできて、すでにお気づきの方もいらっしゃるかと思います。高光が生まれたのは939年、しかし高光の鬼退治は933年とされているのです。はい伝説ですからね、というわけで探究もここでゲームセット。
 と思っていたのですが、面白い問題に気づきました。如覚(高光)にかかわる二人の師匠、良源も増賀も不思議な噂の多い僧だということです。良源は慈恵大師、元三大師、角大師の別名を持つ「比叡山復興の祖」で、鬼に変身して疫鬼を追い払った「角大師」の伝説や分身を使った「豆大師」で知られ、今でも角大師の護符は京都ではよく見られる、という、エクソシストとして有名な人です。
 その弟子には『往生要集』で極楽往生の実例を挙げまくった、平安時代の超有名人、天国コンサルタントの源信(恵心僧都)がおり、増賀はその兄弟弟子となります。彼は伊勢に行って神宮の啓示を受け、裸で帰京したのをはじめ、名声や権力が近づかなくなるような奇行を繰り返しながら、不動供などの超能力的な修法(密教の呪術的な儀式)でも知られた高僧です。いわば後の時代の西行と一休を足して二で割ったような人で、しかも山岳仏教とも関係が深いという大物有名人でした。如覚はそんな兄弟子を妙楽寺にスカウトしました。そして如覚は兄の関白太政大臣藤原伊尹の後援で常行堂を建立しています。師匠の良源は師輔の後援を得て延暦寺を再興し、その子尋禅を天台座主としたように、多武峰は如覚と藤原伊尹によって増賀を迎えて再興され、大和における天台宗系山岳信仰の重要な足掛かりとなったのではないか、と考えられます。
そして平安後期になると、多武峰は「大織冠破裂」で有名になるのです。もともと多武峰は藤原鎌足の墓所として知られた所で、妙楽寺には鎌足=大織冠像がありました、これが平安時代後期から室町時代にかけて、しばしば破裂、ひびが入るというのです。これは鎌足の霊が異変を知らせている、何かの予兆なのだと言われ、当時の貴族社会を多いに揺るがせる大事件と受け取られました。つまり多武峰は藤原氏の危機監視センターの役割を負うようになったのです。
 このように見てくると、如覚こと藤原高光は、単なる繊細な歌人貴族ではなく、天台系山岳信仰にとって、多武峰の繁栄の基礎を造った、きわめて重要な人物だったのではないかと考えられるのです。

さて、私は以前から、藤原高光が「さるとらへび」の信仰と関わったのは、この信仰が都の上空を飛ぶ妖しい光に由来していることと関係すると思ってきました。高い光だから高光という名前が連想され、実在の藤原高光とは偶然に一致したと考えていたのです。しかし最近では、高光の名の選択には、増賀の弟子の如覚=高光のイメージも重なっていたのではないか、という気がしてきました。というのも、「高賀社記録」では彼を助けたのが虚空蔵菩薩としているからなのです。虚空蔵菩薩は、記憶力を著しく伸ばす虚空蔵求聞持法という修法で知られ、天台・真言を問わず信仰された不思議な菩薩です。神仏習合を強く残す高賀山信仰においても、今でも重要な役割を果たしています。そして中世において虚空蔵信仰の最も盛んだったのは、伊勢神宮の鬼門封じと言われた、伊勢市の朝熊山の金剛証寺なのです。今でも高賀から朝熊山の間には、星合、明星、星宮など、明けの明星を虚空蔵菩薩と見なす虚空蔵信仰の痕跡が点々と残っており、虚空蔵信仰は鎌倉時代以降、美濃から伊勢へのラインで広がった可能性が指摘されているのです。
 そして増賀自体が、伝説的には伊勢神宮の諭しで奇行を行なったとしており、その弟子の如覚は元斎王、雅子内親王の息子という世にも珍しい貴族なわけですから、彼らの情報もまた、伊勢から美濃に広がっていた可能性もあるのではないかと思います。そして、斎王の息子=天照大神の申し子で、多武峰=藤原氏の本拠の一つと深く関わる少将、藤原高光こそが鬼退治の「聖なる戦士」に相応しいという伝説が生まれたのではないかと思います。そして退治される方も、特別な聖戦士に相応しく、ただの大きな鬼ではなく、有名な鵺を思わせる特別な怪獣「さるとらへび」となっていったのではないかと最近、私は考えているのです。

榎村寛之

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