第69話  斎王を卜う、斎王を計る

斎王は、卜いで定められていました。詳しく言えば、新しい天皇が位につくと、未婚の皇族女性を対象に、名簿をもとにして亀の甲羅を用いた卜(うらな)い、亀卜(きぼく)が行われ、候補者が適当かどうかを卜うのです。しかし、斎王に関わる卜いはそれだけではありませんでした。今回は斎王と斎宮にまつわる卜いのお話です。
斎宮についてのさまざまな規則をまとめた『延喜斎宮式』には、斎王が選ばれて後、最初に世間から離れて暮らす初斎院(宮中に置かれました)には、斎王に宮主(卜いの責任者)、卜部(卜いの専門担当者)が仕えるとしています(15条「初斎院の別当以下の員」)。そしてこの卜部が関わる重要な仕事に、御贖(みあが)がありました。
御贖とは、本来は天皇、皇后、皇太子に対して6月と12月に行われる特別な祓のことです。この儀式では、麻の繊維で祓が行われた後、卜部の用意した荒世(あらたえ)と呼ばれる衣装を宮主が中臣氏の官人に渡し、中臣は中臣氏の女に渡して天皇に捧げます。そして中臣の女により節折(よおり)儀という不思議な儀式が行われます。竹の枝で天皇などの身長や肩から足まで、胸の真ん中から指先まで、腰から足まで、膝から足までの長さを五回計測するのです。その後天皇は、壺に息を吹き込み、宮主・卜部は壺と荒妙とともに取り下げます。次に和妙(にぎたえ)という衣装を捧げて同じ事を行い、やはり衣装と壺を取り下げて、解除(はらえ)を行うのです。そして使う竹の枝にも決まりがあり、小竹(しの)20株、径2分(約6センチ)、長さ8尺(約2.4メートル)と定められていました。宮廷の神祇官に仕える宮主、卜部は、このような特殊な祓にも関わっていたのです。(『延喜神祇式 四時祭上』 30条「御贖」)
 そして御贖は斎宮でも行われていました。『延喜斎宮式』には京の外で世間から離れて一年を過ごす野宮の段階から6月の祭として、「御贖料」の小川竹20株が計上され、卜部6人(一人は宮主か)、中臣男女1人ずつが関わるとしています(25条「御贖料」)。つまり、小竹を使った計測儀礼は間違いなく斎宮でも行われていたのです。ところが、野宮関係の条文を見ると、月料としても、亀甲1枚、竹20株が計上されています(38条「月料」)。これは、斎王の竹を使った計測が、毎月行われていた証拠となるものです。そして斎宮でも宮廷でも御贖は毎月末に行われていましたが、宮廷の晦日御贖には小竹は計上されていません。つまり斎宮では、宮廷でも行われていなかった、毎月末の斎王の身体測定があったと考えられるのです。

さて、先に月料に亀甲1枚の記述があることに触れましたが、野宮で神祭りを行う主神司の月料、つまり月ごとに宮廷に請求する消耗品の中にも、亀甲1枚と波々可(=ははか、ウワミズザクラで、この枝を焼いて亀卜を行う)5枚が見られ、この亀甲が亀卜用品だったことは疑いありません(32条「野宮の主神司の請くる所の月料」)。また、斎王の群行時には、その経路で必要があれば卜いができるようにやはり亀甲1枚が準備されていました(60条「路間の儲の料」)。また、斎宮では、志摩より毎年秋に亀甲12枚が調として貢納されることになっていました(78条「調」)。
さて、卜いに使う亀甲とは、海亀の甲羅の骨から取るもので、1枚はたかだか20センチ×10センチ程度の縦長の将棋の駒のような板です。そしておそらく使い回しは効きません。とすれば、ここで言う12枚とは、小さな縦長の将棋の駒形1枚ではなく、その原料になるアカウミガメの甲羅一個体分のことと考えられます。とすれば、斎宮では月ごとに様々な卜いに対処できるように、卜い道具の供給体制が確立されていたと考えられるのです。実際斎宮では、たとえば、在京の間には、斎王は朔日ごとに斎殿で神宮を遙拝しますが、野宮の責任者の別当太夫(五位の貴族)以下で卜いに合った者はともに再拝両段(45条「潔斎三年」)とか、毎月下旬に、雑色・仕女以上の名簿をもとに出勤可能かどうかを卜い、伊勢神宮で行われる9月神嘗祭・6月と12月の月次祭(あわせて三節祭)、そして11月の斎宮新嘗祭に参加してよいかどうかも卜っていました。さらに三節祭前に大淀の海や竹川(今の祓川)で行う禊での行列の先導役を勤める国司についても、名簿をもとに卜い、最も合う者を選抜していました(82条「最合」)。斎宮では卜いはかなり日常的に行われていたのです。
さて、そのため斎宮では卜いの神さまが祭られていました。卜庭(うらにわ)の神といいます。この神は卜庭神2座として祈年祭の神の大社17座の中に祭られていて、毎月晦日にその祭が行われるという重要な神さまで(63条「毎月晦日の卜庭神の祭」)、しかも野宮では祭られていませんでした。(61条「祈年祭」)。つまり野宮より斎宮で重視された神さまだったのです。そしてこの神は宮中でも祭られていますが、その祭は6月と12月にしか行われませんでした。これもまた宮中より斎宮で重視されていたのです。
さて、宮中の卜庭祭は、御体御卜、つまり天皇の身体について卜う儀式の始めと終わりに宮廷に勧請されて祭られるものでした。この御卜は6月と12月の1日から9日まで行われ、この先6ヶ月の天皇の身体予測をするもので、六月の宮中月次祭に合わせて行われる神今食(天皇が神さまを招いて食べ物を捧げ、一緒に食べる祭祀)と深く関係しているとされています。(『四時祭上』22条「卜御体」)。つまりそんじょそこらの卜いとは違う、格別に重要な卜いの時にしか行われなかったのです。
そして、先に斎宮では、月料として亀甲1枚と竹20株が用意されることを述べました。竹20株は月末の御贖に使われるものでしょう、しかし御贖には亀甲は使われません。ではこの亀甲は何のためにあるのか、私は斎王の「御体御卜」のために用意されたのではないかと考えています。

実は宮中の御体御卜では、亀甲と竹が計上されています。そして御体御卜が行われている間は、御贖祭という特別な御贖も行われていたのです。そして宮中の御体御卜と連動する月次祭と、斎宮の月次祭では祭りの内容は全く異なります。斎宮の月次祭は斎王が伊勢神宮に出向いて神宮に拝礼して太玉串を捧げるもので、斎宮の中では神今食は行われないのです。つまり、宮中と同じような御体御卜は行えないのです。
もとより御体御卜は天皇の特権ですから、斎宮で行われなかったのは当然だ、という考え方もありえます。しかし卜庭祭が毎月晦日に行われていることは大変気になります。これは毎月晦日に、斎宮への出勤者決定などよりもっと重要な卜いが行われているということではないでしょうか。同日には御贖物も行われ、小川竹で斎王の身体測定も行われていました。小川竹を使った身体測定は前回との変化を測定するものでしょうし、御体御卜の亀卜は向こう半年に天皇の身に起こる色々な事件の予測だったと考えられます。神に仕えるのが主目的の機関だった斎宮では、宮廷よりもっと頻繁に、毎月の晦日、御贖による身体測定と亀卜による斎王の身体についての来月の予測を行っていたと考えられるのです。
宮中の御体御卜は色々なことを卜いましたが、中でも必ず行われていたのは神意、神の祟りでした。といっても、今の祟りのイメージとは少し違います。伊勢神宮をはじめとする神々が天皇にどのようなメッセージを送っているかを、天皇の体調の微妙な変化をもとに卜って判断する、ということなのです。斎王の場合は毎月、伊勢神宮がどのようなメッセージを送っているのかを判断する儀式として行われていたと考えられます。そういう重要な卜いなので、宮中でも見られない毎月の卜庭祭が行われていたのではないでしようか。
最後に、この卜いが伊勢神宮の神意を卜うものだったことについてはもう一つ重要な証拠があります。それは斎王が三節祭に行く前にも卜庭祭を行っていたことです。伊勢神宮に赴く、という最も重要な任務についても、斎王は神宮にお伺いを立てていたのです。

榎村寛之

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