第67話  伊勢に至る道もいろいろ

 先日、松阪市飯南町横野というところで出前講座を開いてきました。博物館から車で東に40分ほどかかる所。広域合併で松阪市になり、その前は飯南町と呼ばれていた地域の中心部あたり、斎宮跡の西3キロほどの所を流れる櫛田川の上流、はやい話が山の中。
 近くには粥見井尻遺跡という県指定史跡があり、縄文時代草創期の、最古級の土偶が出土しています。松阪から来る道はもう少し上ると見峠を越えて、紀伊半島を東西に横切り和歌山に至ります、通称和歌山街道。中央構造線に沿って紀伊半島を横断する街道です。
 一方、この横野からはもう一つの街道が別れています。講演会はこちらの道沿いの公民館で開かれました。その周りにも江戸時代以来の街道の面影が所々に見られます。街道沿いには茶畑が拓かれていますが、おもな集落は櫛田川や、そこに横野で流れ込む仁柿川という川に沿って広がっています。稲作に生きる、というより、街道筋に広がった街、という感じです。実はこの道、仁柿川に沿って上り、狭い狭い道で仁柿峠を越える「酷道」とまで言われる国道368号線なのです。峠を越えると、公家から戦国大名になって織田信長に滅ぼされた北畠氏最期の地で、北畠氏館跡庭園の残っている津市の多気(たげ)の街を経て、最近やっと全線復旧して長い眠りから覚めたJR名松線の終点、伊勢奥津を通り、名張に至ります。松阪市や伊勢市から最短距離で名張に至るのはこの仁柿峠を越える道でした。
つまりこの道は、江戸時代には大坂から伊勢を結ぶ最短距離の街道「伊勢本街道」だったのです。だから山の中なのに人通りが多く、街道沿いに栄えた痕跡があちこちに見られたというわけなのです。大坂から伊勢への旅というと、「東の旅」と通称される一連の落語が知られていますが、その中でも、例えば奥山の尼寺で怪異に逢う、と思ったら狐に化かされていたという「七度狐」など、まさにこういう街道沿いの噺なのでしよう。わずか150年ほど昔、大坂と伊勢を結ぶ街道はこんな道だったのです。

無題

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 まだ大規模な土木工事など夢だった時代には、山を越える道は櫛田川のような川に沿ったわずかな平地に発しか造れなかったし、人々もそうした道沿いに暮らしていたのでしょう。当然整備された道など望むべくもなく、旅は危険で厳しいものだったことでしょう。江戸時代でも、街道は細く、街は細長かったのです。
ところが斎王の都から伊勢に向かう旅はそうではありませんでした。
奈良時代の斎王は伊賀盆地を横切り、東に向かって伊賀と伊勢を区切る南北の山塊、布引山地山を越えて伊勢に入っていたようです。斎王ではありませが、675年に伊勢神宮に参詣した天武天皇の娘、十市皇女に仕えた吹芡刀自という女性が歌った、『万葉集』巻1−22の歌
十市皇女の伊勢神宮に参り赴きし時に、波多の横山の巖を見て、吹黄刀自の作りし歌
川の上のゆつ磐むらに草生さず常にもがもな常処女にて
に出てくる波多の横山という地名から、東向きのルートを採っていたと推測されるのです。とすれば伊賀盆地をぎりぎりまで平地で行き、最短距離の山越えで伊勢平野に入ったものと見られます。おそらくこの道は、天武朝初期に整備され、大来も泊瀬、つまり今の長谷寺周辺から伊賀を縦断して青山に至ったのでしょう。今の近鉄大阪線のルートに近い道筋と考えるといいと思います。
また、平安京から斎王が旅立つようになってからも、斎王は湖東平野を通った後、野洲川沿いに進んで鈴鹿峠を越え、伊勢に入っていました。やはりできるだけ平坦な道を行こうとしていたことがうかがえます。
こうした旅は、ある程度道が整備されるようになった時代の旅の発想だと言えるでしょう。つまり道が地域を越えた権力により一斉に造られるようになった時代の、そして道を行列が行くこと自体が、その権威を表すという時代の旅の形なのです。それは8世紀、律令国家が全国を国、さらに分割して郡という単位で均質な支配を行う体制になってはじめて可能になったものだと考えられます。

斎宮跡では8世紀前期に整備されたと見られる、幅約9メートルの通称「古代伊勢道」が再現されています。近年発見された山陰道もほぼこの位の幅のようです。全国に一定企画の道を通していくのは、まさにその土地ごとに同じ権力を持つ国司がいなければできない大事業でしょう。その意味で8世紀の斎王は、当時としては最新の道を歩いていたのだということになります。奈良時代の計画的な道路は、時には条里制の土地区画とも一体になり、平野の中を極力まっすぐに走るようになっていたことが全国各地の考古学、歴史地理学的な調査から指摘されています。斎王はまさに、国家的な道路を自由に使える人として群行を行っていたのです。
ところが平安時代以降、このような整備された幅広い道は次第に姿を消していきます。おそらく地域の支配がゆるんでくることで、道の維持が各地域に委託できなくなり、必要な部分だけが残されていくようになったもののようです。一つの例として、都から伊勢に来る公卿勅使は11世紀頃になると、雲出川を河口部で渡るようになっていました。大河の河口部は引き潮になると川底が現れるほど浅くなり、渡りやすいのです。
その意味で道のあり方は、中世になると古墳時代以前に先祖返りした、ということも言えるようです。旅があれほど盛んだった江戸時代はもとより、近代になっても広い国道などはほとんどありませんでした。戦後でも国道一号線でさえ、都心を離れればせいぜい二車線だったのです。
そうやって考えると、斎王の旅の特殊性が際立ちます。斎王群行は5泊6日の行程でしたが、実際の移動距離は130キロメートル程度。早馬なら3日で走れる所を、しずしずとやってくるのです。それは、決して伊勢本街道のような最短距離も、早馬のような最短時間も求めない旅で、幅9メートルもある道路と一体になって、道路を舞台にして天皇の権力を示す一大イベントでもあったのです。

榎村寛之

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