第66話  お日様を拝むこと

 2017年も無事に明けましておめでとうございます。本年も斎宮歴史博物館をよろしくお願いいたします。
ところで大晦日は徹夜をする日だったという風習は全国的にあったようですね。だから新年は初日の出とともにやってくる、という伝統的な意識があるのだとか、今でも初日の出が見られるかどうかがテレビの話題になるのもそのせいのようなのですが。
さて太陽のことを「おてんとさま」といういい方がありますね。あれは「お天道様」のことで、太陽が世界の秩序を司っているという意識です。伊藤聡『神道とは何か』(中央新書 2012)によると中世後期には天道思想として定着する考え方とのこと。
とはいえ太陽を尊ぶという考え方は、言うまでもなくアマテラスオオミカミを連想させますね。実際、『古事記』では、イザナギノミコトが黄泉の国から戻って禊をした時に左目から産まれたとして、高天原を治めよと言われ、右目からはツクヨミノミコトが産まれて夜の国を治めよと言われて、あれれ「日の神」とは書いてない。
では、『日本書紀』ではと見ると、イザナギとイザナミノミコトが天下の主を産もうとしたら、日の神オオヒルメノムチ(別名アマテラスオオミカミ)が産まれたので天に送り、次にそれに次いで明るいツクヨミが産まれたので、そのサポートをしなさいと天に送った、となっています。ほら、日の神と出てくる、あれれ、目からじゃなくて、イザナミが産んだことになっている。しかもアマテラスは本名じゃない。
というように、記紀神話の原文を見るだけで、アマテラス=太陽神という考え方にはいろいろな疑問が湧いてくるのです。
そもそも日と月が対になるという考え方は、日を太陽、月を太陰というように、陰陽道、さらにルーツをたどれば中国の民間信仰にも行き着く考え方です。一方神話学の三品彰英氏『増補日鮮神話伝説の研究』(三品彰英論文集4 平凡社 1972)によると、新羅にも日月を対にする神話があったのですが、日を男神、月を女神としています。三品氏は、日を男とする考え方は西アジアや中央アジアに原型があり、日を女とする考え方は北方アジアに原型があるとしています。どっちにしても世界的なわけです。
ところが記紀神話では、太陽に比べて月の信仰は極めて分が悪いのです。ツクヨミという神さまは記紀ともにほとんど出番がない。『日本書紀』の一書に、食物の神ウケモチの所に使に行ったら、食べ物を体中から出しているのが気持ち悪いって殺してしまったのでアマテラスから「おまえみたいなやつとは一緒にいない」と怒られて夜の神になったくらいで、しかもこのネタは『古事記』ではスサノヲの話になっていますから、実に影が薄い。

とすれば日本ではもともと太陽だけが尊崇されていた、とも思えるのですが、それは別に日本だけには限ることではありません。同じく三品氏の『建国神話の諸問題』(三品彰英論文集2 平凡社 1971年)で取り上げている、『魏書(三国時代、あの曹操の子の曹丕が開いた王朝ですね。倭人伝が有名)』の「高句麗伝」によると、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)は河の女神が日光に照らされて産んだ卵から産まれた、ということです。大𦚰由紀子『古代朝鮮神話の実像』(新人物往来社 2012年)によると、朱蒙の神話は高麗時代に編纂された『三国遺事』をはじめ、文献や金石文など多くの資料で見られます。太陽を王の祖先とする発想も含めて日本と同じです。太陽の孫であるニニギノミコトの子のホオリノミコト(ヒコホホデミノミコト、山幸彦)は海に入って海神の娘トヨタマビメと結婚し、その孫が神武天皇になるわけですから、太陽の神に関わる者と水に関わる者の結婚、という点でも似ています。
つまるところ太陽に対する信仰は東アジア各地で広く行われていたようなのです。
しかし日本の場合面白いのは、目から太陽が産まれた、という『古事記』の記述です。中国南朝の梁代(502−557)に書かれたという『述異記』という志怪小説(怪異や神話をもとにした物語)には、太古の巨人神盤古が死んだ後、その左目が日、右目が月になったとあり、この神話を取り入れた可能性が高いのですが、『日本書紀』ではそうはしていません。『日本書紀』と『古事記』の神話の違いについては、『日本書紀』は誰もが読める本、『古事記』は天皇家内部で読まれる本としていたので、『日本書紀』の神話には多くの異説が併記され、本文にはあまり極端なことは書けなかったと考えられています。とすれば、太陽が目から産まれたとする『古事記』の神話は、当時としても一般受けするものではなかったと考えられます。ならば日本では、太陽神はイザナミが産んだとしているのが古い形で、中国の神話を踏まえて、太陽が目から産まれるとしたと考えられます。
その背景には、最高神であるアマテラスは普通の産まれ方はしない、という意識とともに、アマテラスが「見る」神だったということも関係しそうです。豊年を祈願する祭祀「祈年祭」の祝詞によると、「天照大御~」は、四方の国を「見晴るかす」神で、列島とその周りの海を、青雲のたなびく限り、白雲の降りゆく限り、海は船の舵や棹が届かなくなるまで、船のへさきの行くところまで、陸は馬の爪の行くところまで支配するとしています。このイメージでは、アマテラスはまさに、高いところから見ている神なのですね。
太陽なのだから当たり前ではないか、とも思われますが、この列島の言葉では、「天=あま」と「海=あま」は同じ言葉です。つまり、空と海はつながっているという意識があったみたい。だから、空は高い、地は低いとは単純には言い切れないのです。実際、常世の国は海の向こうにあると認識されていました。

それに対して、大陸では、天は高いところにある、という考え方が早くからありました。漢民族は天を祀り、天帝の支配する「天」が万物の運命を定める摂理を持っていると考えていましたし、北方騎馬民族には「テングリ」というもっと自然神的な天界意識がありました。そして律令国家は、例えば「天皇」という言葉一つを例にとっても、天に匹敵する偉大なる王、というイメージを造ろうとしていました。その際には、海で空と続く「あま」より、地とはかけ離れた「天」の方が利用しやすいことは言うまでもありません。
どうやら「天」という漢字で表される概念は、律令国家の形成される7世紀中盤以降に導入されてきた新しいもののようなのです。天皇の名でも「天命開別尊=あまみことひらかすわけ)」(天智天皇の和風名)「天渟中原瀛真人天皇=あめのぬなはらのおきのまひとのすめらみこと)」(天武天皇の和風名)など、天がつく天皇はこの時期に集中しています。ちなみに和風名に天がつくのはこの他に欽明・皇極(斉明)・孝徳で、欽明以外は7世紀の天皇です。また「天智」「天武」という名は、8世紀後期に制定された漢風謚号ですが、「天」が最初につく天皇も古代にはこの二人だけ、というのも七世紀から八世紀にかけて「天」という字が特に大事にされたことと関連していそうです。天照大~とは、まさにこの時代に相応しい、高いところから見ている神とされていたのです。
さて、天が地から隔絶したものとする中国的な発想から考えると、「天皇」という称号にも中国的な「天」の意識が反映されていると考えられています。そして実際にその意識を形で目に見える形で表した天皇がいます。それは桓武天皇で、延暦四年(785)に二度、郊天祭祀、つまり天帝を祀る祭祀を行っているのです。桓武天皇の母系は渡来系氏族の和(やまと)氏で、百済国王の子孫である百済王(くだらのこにきし)氏と同族と称していました。そして百済は高句麗の分かれとされていたので、百済王は朱蒙の子孫でもあるのです。とすれば桓武にとっては、天を祀ることは、中国の皇帝に自らを準えるとともに、父方=アマテラス、母方=朱蒙の父の日神を祀るという認識もあったのでしょう。
話があちこちに飛びましたが、初日の出から「天」までやってきました。最後にここまでの話から斎宮に関わる連想を二つばかり。
一つは、「天照大神」という名が、『日本書紀』の比較的信用できる部分ではじめて見える、つまり神話や神功皇后伝説などを除くと、壬申の乱の時に天武天皇が天照大神を遙拝した、という記事であることです。言うまでもなく、天武天皇は斎王の実質的な最初である大来皇女を派遣した天皇です。もう一つは、桓武天皇が、中国風の天を祀る儀礼「郊祀」を河内国交野郡(大阪府交野市)で行ったことです。桓武天皇は斎宮に碁盤目状の区画、方格地割を造った天皇です。一方交野市には百済王氏の氏寺である百済寺(特別史跡)があり、その北側の禁野本町遺跡では、近年、斎宮の方格地割によく似た方形区画が確認されています。やはり8世紀末期の造営で、この時期には桓武天皇が盛んに狩猟行幸を行っています。この二つの碁盤目状の区画が全く無縁だったとは考えにくいのです。
天を祀るということに新しい感性を持ち込んだ二人の天皇が斎王制度とも深く関わるというのはなかなか興味深いことでもあるのです。
斎王は正月元日に伊勢神宮を遙拝していましたが、特に太陽を拝んだり、天を祀ったりする儀礼は記録されていません。斎王が仕えていたのは、日の神、自然神としてのアマテラスというより、全国を見晴るかし、全ての秩序の中心となる神、すなわち律令国家を象徴する神である「天照大神」だったのではないかと思えるのです。

榎村寛之

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