第64話  謎が謎呼ぶ出雲展


 斎宮歴史博物館特別展『古代の出雲』おかげさまで好評開催中です。
 しかし展示する側から言うのも何ですが、古代出雲は、謎とロマンに満ちあふれた所だな、ということを改めて感じます。この展覧会では、近年の出雲で明らかになった色々な大発見を紹介しているのですが、1つ大きな発見があると、1つ大きな謎が生まれるような感じがするのです。
 その@ 青銅器の色
 今回のメイン展示の1つは、弥生時代の青銅器群です。そう、国宝に指定されている出雲市荒神谷遺跡の358点の銅剣のうち3点と、同時に出土した銅矛2点、そこから4qと離れていない雲南市加茂岩倉遺跡の39点の銅鐸のうち3点です。
 この銅剣と銅矛は、同じ青銅器で、ほぼ同じ所から出土したのに、色が全く違います。銅剣は全体に明るい緑青色をしているのに、銅矛は黒に近い深緑色です。
大体青銅、またはブロンズと言われるものは、銅と錫(スズ)、そして鉛が少し入った合金です。その違いは金属の比率の違いなのかもしれません。報告書『出雲神庭荒神谷遺跡』を見ると、銅矛は銅の含有量が70パーセント強で錫が14%程度、鉛が6%程度なのに対して、銅剣は銅が80%強、錫が5〜6%、鉛が10%と、銅剣に鉛が多く使われているのが原因ではないか、という感じがします。
 そして色について面白いのは、青銅は錫が多いほど、銅は白銅色に近くなるということです。つまり銅剣はできた当時にはピカピカの十円玉色に近かったのに、銅矛はもっと白っぽく、磨いた鉄に近い感じだったということなのです。弥生時代の人が好んだ色というのはどちらだったのか、と言うのも大きな謎です。
 さらに、銅鐸になると、緑青が吹いた緑色が好みなのか、本来のブロンズ色が好みなのかという問題が出てきます。それは銅鐸を、土の中で錆びさせるために埋めたのか、本来ピカピカに磨いて保存していたけれど、何らかの理由でやむなく埋めたため緑色になってしまったのか、という問題につながるからです。
 銅剣・銅矛・銅鐸の色一つでも、大きな謎が秘められているのです。

 そのA 銘文入りの剣の形
 古墳時代の展示コーナーでは、複製品ですが、松江市岡田山1号墳から出土した「額田部臣」の銘の入っている6世紀の大刀が展示されています。「部」というのは、「部制」とか「部民制」とか言われる支配システムを表す漢字で、ある仕事をする人々を表す「部」(土器作りの「土師部」、軍事の「物部」、蔵の管理の「蔵部」など)や、中央の有力者の私有民であることを示す「部」(日下部=草壁、穴穂部、刑部=忍壁、新田部など) などがあります。この銘文は、文献ではない実物資料から「部」の文字が出てきた最古のものなのです。後者は「名代」と呼ばれ、大王やその子供達の名前や宮殿の名前を残すために作られたものとも言われています。そしてこの大刀の「額田部」は、額田部皇女、つまり推古天皇に関連するものと考えられています。推古天皇は母を蘇我堅塩媛といい、蘇我氏の血を引く皇族です。そして額田部氏は、『出雲国風土記』にもこの地方の豪族として出ており、ヤマトとの深い関係がうかがえます。ところで、このように考えると、出雲東部には蘇我氏の影響が強く及んでいた、ということになるかと思います。実際、この周辺では、新羅など朝鮮半島の影響を受けた環頭大刀と呼ばれる装飾刀が6世紀の後期古墳から多く出土しており、それらは蘇我氏の影響下にある豪族に配布されたとする説もあるのです。何もかもが出雲東部と蘇我氏の関係を示唆している・・・ように思えるのですが。
 実は岡田山1号墳の大刀は環頭大刀ではないのです。より古いタイプで、出雲西部に多く、蘇我氏系ではない大王候補を推して滅ぼされた物部氏系の刀ではないかとも言われる、円頭大刀と呼ばれる装飾刀なのです。しかも岡田山1号墳はヤマトとの関係を形で表すと言われる前方後円墳ではなく前方後方墳。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 そのB 巨大な?出雲大社
 平安時代中頃に編纂された『口遊』という本に、「雲太、和二、京三」と口に出して覚える文句が記録されています。これは全国巨大建物ベスト3で、出雲が一番、大和が二番、京が三番という意味で、出雲大社が最大、東大寺大仏殿が二番目、平安宮大極殿が三番目なんだ、ということなのです。
 しかしいくら大きな神社といっても、大極殿より大きいなんてことがあるのでしょうか。出雲大社の祭祀を行う千家国造家には、高さ16丈、つまり48メートルとした文書と、三本の巨木を束ねて一本の柱とする設計図もありましたが、ずっと信じられてはいなかったのです。ところが出雲大社で遷宮のための整備を行った際に、本殿前の発掘調査をしたところ、出てきてしまったのです、三本一組の巨大な柱根が。
この柱は現在、保存処理を受けて、その一組が島根県立古代出雲歴史博物館のエントランスロビーに展示されており、一本あたり直径約130センチという巨大な柱根は見る者を圧倒します。その実物はさすがにもって来られなかったのですが、今回の展示ではその写真と発掘現場の図面パネルを、出雲大社の模型と共に展示しています。
 ところがこの図面を見ていると、新たな謎が浮かんできます。実はこの柱根は鎌倉時代のものであることが明らかになっています。しかしこの図面の中には、室町時代や安土桃山時代の遺跡の表示はあっても、肝心の奈良・平安時代の遺構表示が全くありません、そう、肝心の平安時代の大型本殿は実はまだ見つかっていないのです。果たして平安時代以前の出雲大社はどのような姿だったのでしょう。
 普通に考えれば、鎌倉時代と同じような姿だったんじゃないの、とも思えますが、この現場には、例えば本殿に続く階段を支えた柱の痕跡もありません。つまりこれより後には本殿建物はないらしいのです。鎌倉時代と全く同じ位置にあって壊されているんじゃないのという意見もありますが、奈良・平安時代の土器などの遺物も全く出ていないのが不審です。そして鎌倉時代には、出雲大社のあり方は、平安時代以前と大きく変わっていたのです。どのように変わったか、それは展示を見てのお楽しみ、としておきましょう。
 
 このように、出雲とは、大きな発見があると、必ず新しい謎が生まれてくるところのようなのです。

榎村寛之

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