第61話  斎宮女御と耀く斎宮の女性たち

まずはこのリストをごらん下さい。
(1)馬内侍、(2)本院侍従、(3)但馬、(4)少納言、(5)侍従御許、(6)帥君、(7)兵衛君、(8)弁君、(9)左衛門君、(10)輔御、(11)こもき、 (12)小隼人
さて、これは何でしょう。実は、斎宮に関わった女性たちなのです。
斎宮の長い歴史を代表する歌人といえば、10世紀の斎王で帰京後村上天皇の女御となった徽子女王(醍醐天皇の皇子重明親王の長女)です。彼女は三十六歌仙に選ばれるほどの優れた歌人で、十代の頃に斎王を務め、帰京の後に村上天皇の後宮に入って斎宮女御と呼ばれ、娘の規子内親王が斎王に選ばれた時に再び斎宮に下っています。斎王の頃の歌は残っていませんが、村上天皇とのやりとりや、天皇の死後に開いた歌合の記録、再び斎宮を訪れた頃に都の高貴な女性たちとの交流などの中で、多くの歌を残しています。
最初に上げたリストは、それらの記録の中に残された、斎宮女御に仕えて、歌合など様々な機会に歌を残した女性たちの名前なのです(西丸妙子「『斎宮女御集』の成立年代について」 『斎宮女御集と源氏物語』より 青簡社 2015年)。
この中で、侍従、少納言と、兵衛、弁、左衛門、輔、隼人などは、いずれも関係する男性貴族の職に関わるものです。侍従は天皇の側仕えする貴族で五位相当、兵衛府(宮廷警護)の長官、兵衛督も五位相当、弁は弁官局(公文書の起草など文書担当)の大弁なら四位だけどこれは出世コースなので中弁か少弁ならやはり五位、衛門府(門の警備)の長官衛門督も五位、輔は省(民部省など)の大きな官司の次官で、やはり五位相当、隼人は隼人司(儀式に奉仕するために京の近くに移住させられていた異民族、隼人の管理をする司)の長官、隼人正なら六位相当となります。
彼女らには、それぞれ本名がありました。たとえば清少納言の本名は清原諾子、紫式部は藤原香子だという説(かならずしも確実ではありませんが)があるように、出仕をする女性は本来○子という名を持ち、それを避けるために父、夫などの官職にちなんだ「女房名」で呼ばれるというのがルールなのです。たとえば侍従は本名が藤原好子、少納言は大江明子だったかもしれないのです。こうした女房名は、その人が五位相当、上限が四位(つまり公卿にはなれないポジション)の貴族身分だったことの標にもなっているのです。これは下級貴族といわれる人たちの子女が斎宮女御に仕えていたことをうかがわせるものなのです。

このような女性たちの多くは歌合の歌人として名が残っています。そしてその中の多くは、徽子女王の斎宮再訪の時にも随行しているようです。
下級貴族の女性たちは、しばしば地方に下ることもありました。たとえば「但馬」という名の女房がいます。彼女はおそらく父や夫が但馬守となっていたところからこの女房名があったのでしょう。とすれば、実際に但馬国に行ったことがあるのかもしれません。清少納言や紫式部は父が国守に任じられた国に実際に下向した経験があるのです。他の女房たちにもそういう経験者はいたかもしれません。とすれば、伊勢に下向することも全く未知の体験ではなかったのかもしれません。斎宮女御が斎王だった頃に伊勢に同行していた古参の女房もいたかもしれません。
斎宮についての法的な規定『延喜斎宮式』には、斎宮に命婦(内侍)、女嬬などの女性が仕えていたことが記されています。彼女らは女官、いわば公務員ですが、この中には五位相当の女性は命婦しかいません。しかし斎宮女御の頃になると、高貴な身分の女性に下級貴族の娘が私的に仕えることが一般的になります。これらが女房といわれる女性たちであり、清少納言が中宮藤原定子に仕えたように、彼女らも斎宮女御に、いわば私的に仕えていたのです。この頃以降斎宮にはそうした女性たちがさらに増えていったものと考えられます。11世紀になると、良子内親王のために開かれた『斎宮貝合』に参加した名を残さない女房たちの多くや、また、12世紀初頭に斎王とともに伊勢に下り、一志の忘れ井で
わかれゆく都のかたの恋しきに いざ結び見む忘れ井の水
と詠んだ斎宮甲斐なども彼女らと同等の立場だったと考えられます。
 このように、10世紀以降、斎宮には貴族身分、つまり命婦と同等の女房たちの数が増えていたと考えられます。そのことは、斎宮に伝えられた都の文化の質的な向上に大きく役立ったことでしょう。
一方、小隼人やこもき(正式な○子の名を持っていない侍女)などは、それより身分の低い女房と考えられます。小隼人が六位相当の階層の子女なら、貴族より下の下級官人の娘、「こもき」は成人以前の少女、または身分の低い娘なのかもしれません。とすれば彼女らは女嬬であった可能性もあります。

 伊勢志摩サミット開催記念「斎宮の耀き」展は、女性が躍動した斎宮の平安文化を大きなテーマとしています。その代表となるのが、斎宮女御徽子女王とその時代の斎宮です。 
『斎宮女御集』は斎宮女御の没後しばらくして、彼女に仕えた女房たちが編纂に関与したと考えられています(西丸妙子前掲書参照)。とすれば、この歌集自体も、優れた歌人斎宮女御の歌集だけではなく、斎宮に暮らした無名の女流文化人たち、本院侍従や但馬たち、いや、斎宮という組織が遺した重要な文化遺産として特筆される資料でもあるのです。今回の展示では、博物館が収集し、三重県有形文化財に指定されている『資経本斎宮女御集』『正般本斎宮女御集』の二点を展示しています。
また、斎宮をめぐる女房たちや、それより下の人々、つまり小隼人やこもきの日常を示す遺物として「ひらがな墨書土器」も見逃せない資料です。私たちは平安時代の文化というと、美術資料として残された完成品しか見られないことがほとんどです。そうした「美しい」成果品は日常的な研鑽の上に成立していたのだ、という、いわば「水鳥の水面下の足」がこうした消耗品に書かれた文字だと思うのです。
 斎宮女御は三十六歌仙の一人として、多くの画像が残されました。今回の展示資料では、江戸時代前期の土佐派、狩野派、住吉派などの三十六歌仙絵の他に、鎌倉時代に選ばれた『女房三十六歌仙』の屏風や画帖(画かれたのは江戸時代)もご注目いただきたいと思います。そのメンバーの多くは清少納言、紫式部、和泉式部、赤染衛門、右大将道綱母など、四位・五位相当の身分の人たちで、皇族として入っているのは斎宮女御と、平安末期の賀茂斎院、式子内親王の二人だけです。この二人は几帳の陰に隠された形で描かれており、特に高い身分として、いわば飛び抜けています。
また、このメンバーには、殷富門院大輔、式乾門院御匣という女房も見られます。彼女らは、殷富門院と式乾門院は、それぞれ平安時代末期と鎌倉時代初期の未婚の女院(結婚をしないで天皇の母親、つまり皇后の代わりを務め、のちに女院の号を受けた人)です。そしいてもともとは、後白河朝の斎王亮子内親王と、鎌倉前期後堀河朝の斎王利子内親王だった人です。
殷富門院大輔、式乾門院御匣は、殷富門院に仕えた「大輔」という女房、「式乾門院」に仕えた「御匣」という女房で、この二人はまさに斎王に仕えた女房です。亮子内親王は伊勢に群行しなかった斎王ですが、利子内親王は群行しており、式乾門院御匣はどうやら伊勢にも同行していたようです。斎王に仕えて伊勢に来た女房の画像としても注目できるものなのです。
 このように、『斎宮の耀き』は、多くの女性たちが灯した文化の光の集合体なのだということが、展示資料からもわかってくるのです。

榎村寛之

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