第60話  源氏物語に描かれた斎宮

 伊勢志摩サミット開催記念「斎宮の耀き」展では、『源氏物語』に関する館蔵の美術資料も展示しています。この『源氏物語』にも斎王が出てくるのはよく知られて・・・いるでしょうか。その斎王に関わるものを中心に、美術資料を紹介していきましょう。
 『源氏物語』と斎王を結びつけているのは、実は斎宮ではなく、野宮、つまり群行以前と群行の旅立ち、そして帰京後の斎王の華やかな暮らしです。そしてその中で最も存在感を示しているのは斎王ではなく、斎王の母なのです。
 六条御息所と呼ばれる貴婦人がいました。光源氏の年上の恋人の一人、貴族の令嬢で未亡人、生田斗真が源氏を演じた近年の映画『源氏物語 千年の謎』では、田中麗奈が演じています。即位せずに亡くなった皇太子の未亡人、多分源氏の叔父の妻だった人で、通称の由来は、先の六条に住む、皇族の母になった女性、という意味です。斎王の母、というのは彼女のことです。
 六条のあたりに住む人、として彼女は物語に現れてきます。平安京の大内裏は京の北側、一条・二条にわたっていますので、六条はかなり内裏から離れたところ、というイメージです。その少し寂しげな所に暮らす未亡人と、源氏がいつの頃からか深い仲になっていました。しかし源氏には当時の権勢家である左大臣の姫君、葵の上という妻がおり、六条御息所はその葵の上と、賀茂祭(正確には賀茂斎王の御契)の見物の折に牛車の駐車場をめぐってのトラブル「車争い」を起こして恥をかかされてしまいます。葵の上を深く恨んだ彼女の魂は生きながら身体を離れる生き霊となり、ついに葵の上を取り殺してしまうのです。
 こうした事件の後、彼女は源氏との関係を絶つために、娘が斎王となったのを汐に、伊勢に下ろうとします。もちろん源氏は大反対で、彼女が娘の斎王と暮らす野宮に出向き、翻意を促しますが、御息所はついに伊勢へと下ります。『賢木』巻でこの野宮を源氏が訪ねる場面では、人影も少ない中に管弦が流れ、黒木の鳥居と小柴垣に象徴される、野宮の寂しげな描写が強く印象に残ります。
 今回の展示資料では、江戸時代に出版された『絵入源氏物語』に、この野宮の描写にもとづいた挿絵が見られます。そしてもう一点ご注目いだきたいのは、黒木の鳥居と小柴垣を背景に小袿姿の女性が佇む『野宮図』です、館内では9年ぶりにの公開となります。この瀟洒な掛幅の作者は、清原雪信(1643?〜1682?)という江戸時代前期の狩野派の絵師です。じつはこの人、江戸時代前期を代表する女流画家、通称「女雪信」として知られているのです。

 名は雪。狩野探幽門下の四天王の一人、久隅守景の娘で、母・国は狩野探幽の妹・鍋とやはり四天王の一人、神足常庵の子にあたるので、探幽と血のつながりもあるのです。雪信は画家として恵まれた家庭環境に育ち、江戸で学んだ後、一説には激しい恋をして上方に移り、絵師として大成したといいます。井原西鶴の『好色一代男』には、京の島原の大夫が、雪信が秋草絵を手書きした衣装を着ている場面があり、また、現在も演じられる歌舞伎『祇園祭礼信仰記』の「金閣寺」の段に出てくるお姫様にして絵の天才、狩野雪姫も彼女がモデルなのだそうです。まさに元禄時代に上方で輝いた女性なのですね。
 彼女の得意としたのは、花鳥画と王朝物語に取材した絵画だったと言われています。この『野宮図』は、女流画家が描いた斎王的な女性、という意味でも貴重なものと言えるのです。
 さて、六条御息所は物語の前半の終わり頃、伊勢から都に帰ってまもなく亡くなります。それから後、ようやく斎王、正確には元斎王に光が当たり始めます。彼女の通称は、斎宮女御、梅壺女御、そして秋好中宮、そう、天皇のお后になったのです、源氏は御息所から彼女の後見を託されますから、源氏の養女格としての入内となります。天皇は冷泉の帝、源氏と藤壷中宮の秘密の子でした。つまり、源氏の息子の妻になったわけです。
 こうした関係なので、彼女の里第、つまり宿下がりして宮中から帰省する所は、もともとの六条邸跡地を拡大して作られた、光源氏が暮らす京内の別天地、六条院の西南の一角でした。「秋の町」と呼ばれるこのブロックに、彼女は秋の草花を美しく植え込んだ庭園を設け、春の町の主人、紫の上とそのセンスを競います。「春秋優越論」と後世にうたわれた源氏物語の最も華やかで優雅な争いの一方の旗頭は、この秋好中宮なのです。
 その秋の町の美しさが最も表現されているのは「野分」巻でしょう。これは六条院を野分、つまり秋の台風が襲った翌朝、源氏の息子夕霧が、四つの町の被害状況を視察する下りで、彼の目を通して各町の紹介をしていく、という趣向なのです。その中で、秋の町では、雨上がりで露がたっぷり残った庭に、美しく着飾らせた童女を降ろして、虫かごに露を集めさせる風情が語られています。

  童女下ろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたま
  ふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎
  花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四、
  五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の
  籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげ
  なる枝ども取り持て参る、霧のまよひは、いと艶に
  ぞ見えける。

 この様子を描いた色紙が、『源氏物語色紙貼交屏風』(三重県指定文化財)の中に見られるのです。絵は華麗にして上品な本格的なやまと絵で、土佐光吉(1539〜1613)やその子の光則(1583〜1638)周辺の絵師によって描かれ、金銀をふんだんに使った豪華なもので、『源氏物語』から三十六段を選んでいます。詞書もそれに合わせたもので、筆者は後陽成天皇、八条宮智仁親王、烏丸光広、近衛信尹、青蓮院尊純などの可能性が指摘される、江戸時代初期の皇族・貴族の能筆家の寄せ書きと見られています。いったい当時でも、こんな豪華な屏風、誰が作れたんだろうと、いささか下世話な心配をしてしまうほど豪華な屏風なのです。
 その華麗なる色紙の中でも一段と華やかな秋の風情、それは六条院の秋の風情を、より華やかに再現したものであり、多くの童女が美しい女性たちに仕えてまめまめしく働く描写は、かつての斎宮の日々を思わせるものとして紫式部が筆を走らせたのかもしれません。

榎村寛之

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