第54話   開館25周年・熊野古道世界遺産登録10周年記念特別展「伊勢と熊野の歌」の見どころ その1

 斎宮歴史博物館では、10月4日より、開館25周年・「熊野古道」世界遺産登録10周年と題して特別展「伊勢と熊野の歌」を開催しています。
 なんだか合唱組曲のテーマのような展覧会ですが、その中身は盛りだくさんで、今までにない伊勢と熊野の展示になっています。この展覧会のテーマは、聖地イメージだけではない、都の先進文化を受け入れ、独自の文化に変換して情報発信センターとなっていく伊勢と熊野の姿です。
 今回と次回、2回に分けて、その見どころをご紹介しましょう。

 その1 後鳥羽院の直筆が見られます。
熊野に関わる歌人として、忘れてはならないのは後鳥羽院(上皇 1180〜1239)です。後鳥羽は建久九年(1198)、19歳の若さで天皇の位を息子の土御門天皇に譲ると、自由な立場の上皇として、作歌や信仰、そして政治にものめり込み始めました。熊野への参詣、熊野御幸はその最たるもので、承久三年(1221)の承久の乱に敗れて隠岐に流されるまで、30回近くもの熊野への旅を行っています。後鳥羽の旅が面白いのは、その路次でたびたび歌会を開いていたことです。何しろ政治的には第一人者の上皇の旅、多くの貴族が随伴しています。彼らと「王子」と呼ばれた道々の熊野関係の神社に宿泊し、そこで歌会を行うのです。歌会は題詠、つまりお題をもらって二首の歌を詠む形で懐紙に書き付けて提出します。その時に使われた懐紙は、まさに歌が生まれた瞬間の記録であり、後世「熊野懐紙」として珍重されました。今回の展覧会では、滝尻王子(和歌山県田辺市)で正治二年(1200)12月6日に詠んだ「山河水鳥」「旅宿埋火」の二つの題の歌が書かれた京都国立博物館蔵の懐紙を展示しています。後鳥羽上皇21才の真筆です。
今回の展示で注目したいのは、こうした歌会が上皇や貴族たちだけでは開き得なかっただろうということです。諸準備は当然地域の有力者が請け負うことになるのであり、歌会の場にも彼らは裏方として控えていたと考えられます。つまり、熊野御幸の歌会は、地域の人々にとっても、都の和歌文化に接するまたとない機会になっていた可能性が高い、ということです。 

その2 伊勢最古のマンガ?を展示します。
 伊勢市二見に安養寺跡、という平安時代の寺院遺跡があります。この遺跡は開発のために発掘され、今は残っていないのですが、その調査で、多くの木製品が出土し、色々な文字や絵が書かれていることが注目されました。面白いのは、木製品に書かれていたのが、経文などの仏教関係の文句ではなく、いろいろな呪文や、戯絵(ざれえ)と呼ばれるマンガのような絵だったということです。
 特に注目できるのは、裸の坊さんと二本足で立つ蛙とおぼしき動物が踊っている絵です。直立二足歩行の蛙と聞いて思い出すのは、京都高山寺が所蔵する『鳥獣人物戯画』に見られる蛙たちでしょう。田楽を踊り、相撲を取り、仏として祭られる蛙たちとよく似た図柄が同時代の伊勢でも描かれていたのです。
 安養寺は西行が治承・寿永年間(1177〜1185)頃に隠棲した「安養山」という所と同じ場所ではないかと言われています。だとするとこれらの絵の情報は、西行を初めとした旅の僧たちが、和歌文化とともに都からもたらしたものなのかもしれません。そして伊勢の人々は、戯れ絵の諧謔的な面白みを理解していたのでしょう。
 都のキャラクターが伊勢に伝えられ、親しまれていたとすると面白いことですね。

その3 歌合の儀式を描いた貴重な絵巻が出ます。
 今回の伊勢の歌に関する資料は、前半が斎宮をめぐる和歌文化を中心に、後半では伊勢神宮関係者が都の文化に接していく様子を中心に展示していきます。
 伊勢の歌の特徴は、都の出先機関だった斎宮や、都と伊勢を往復する神宮祭主、さらには西行のような旅する歌僧などの影響で、伊勢の神官や関係する僧侶たちが、伊勢独自の歌壇を作っていく、ということです。その成果としてよく知られているのが「伊勢新名所絵歌合」(神宮徴古館蔵)です。これは鎌倉時代後半に伊勢で作られた絵巻物で、新名所、つまり、新しく発見した歌の名所=歌枕になれるような風光明媚な土地についての歌と、その情景を描いた絵を交互に配置し、伊勢の文化を都に示そうとした絵巻です。歌合の判者は当時の宮廷歌壇の第一人者、二条為世(藤原定家の曾孫)に依頼するなど、格式の高さを強く意識したものと言われています。
 この絵巻は上下二巻で構成されていますが、残念なことに現在残っているのは下巻のみです。しかし、幸いなことに、江戸時代前期に作られた上下揃いの複製本が残されており、上巻の雰囲気もわかるようになっています。とはいえ、これまで上巻は写しということもあり、ほとんど注目されてきませんでした。ところが、この上巻の巻頭には非常に珍しい場面が描かれていました。歌合を行う歌会の儀式の様子です。歌会の手順は文字記録にはしばしば見ることができますが、絵となると鎌倉時代以前の絵巻にはまず見られないのです(知られているのは南北朝時代に描かれた「慕帰絵詞」という絵巻が最古です)。
 しかし、この絵巻には、写しとはいえ、鎌倉時代の歌合の場面がしっかりと描かれていました。そしてその上座には、古風な風体の老人が座り、その前に机と短冊が並べられています。実はこれ、歌の神様、柿本人麻呂の画像なのです。
 平安時代後期の元永元年(1118)以降、本格的な歌会では、柿本人麻呂(人丸と通称します)の肖像を飾り、神として祭って酒食を捧げ、その前に歌を披露するという「人丸影供(ひとまるえいぐ)」という儀礼が行われることになっていました。始めたのは歌の家で、藤原俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)ら御子左家(みこひだりけ)のライバルだった六条家の藤原顕季(あきすえ)でしたが、その後広く行われるようになります。その「人丸影供」の様子がここに描かれているのです。
これは平安・鎌倉時代の歌合についての、全くの新発見ではないかと思われます。

榎村寛之

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