第39話  平清盛も通った、斎宮の区画道路

 斎宮跡では、平成23年度の終わりに、新しい道路が完成しました。道路と言っても、車が通行するような道路ではありません。平安初期に造られた斎宮の区画を構成する道路を、実物大で再現したものです。
 この道路は、幅12メートル程もあり、当時の斎宮の壮麗さを体感していただく実物大復元整備事業の第一弾として造成しました。場所はいつきのみや歴史体験館の斜め前(やや南側)から、近鉄線の北側に沿うようにして、東に向かって約240メートルのびています。
 この道路を東に行くと、南側にクスノキなど三本の木が立っており、その近くに、「いろは歌」のひらがな墨書土器が出土した所の表示があります。近鉄線路を挟んだ南側には、竹神社の森が広がっていますが、平安後期の斎宮内院はこの地域に集約されていたと考えられています。つまりこの道路は、斎宮内院の北側道路だということになるのです。
 さて、この道路が斎宮内院の北側道路だとすると、斎宮だけでなく、この地域にとって極めて重要な道路だったことになります。平安時代に伊勢神宮と京を行き来した重要な使は、必ずこの道路を使ったと考えられるからです。
 永久2年(1114)、当時中納言で左兵衛督と検非違使別当を兼ねていた藤原宗忠が、伊勢神宮に神宝を奉納する公卿勅使となりました。宗忠は大部の日記『中右記』を遺したことで知られる知識人で、この時の旅も詳細に記されています。
それによると、彼が斎宮を通過したのは、2月2日、都を立ってから5日目のことで、神宝は南面を通し、自らは北面方を通るとしています。道路沿いには、斎宮の女房たちが桟敷を並べて、都人の通過を見物していたとしています。女房たちがすぐに出てくる所とすれば、宗忠が通ったのは、今回整備した内院北面の道路である可能性が極めて高いのです。宗忠は故実に通じた人なので、この通り方は、公卿勅使の定例として行われていた可能性が高いと言えます。そして公卿勅使は、神宝奉納の他にも、天変地異や神宮・宮廷で起こった異変、不吉な年の事などで祈願があれば送られるもので、特に10世紀以降次第に増加し、12世紀になると毎年のように送られることもありました。

公卿とは、四位相当の参議(761年以降は従三位相当)と、三位以上の貴族のことを言います。従って公卿勅使はかなりの大物貴族が任命されるのです。例えば一条天皇の時代には、その有能さゆえに、一条朝の四納言(四人の大納言・権大納言)といわれた内の二人、源俊賢と藤原行成が、ともに参議の時に来ていますし、白河天皇の時代に権勢を振るった村上源氏の太政大臣源雅実は八回もこの役をつとめており、学者として高名な参議(極官は権中納言)大江匡房の名も見られます。しかし何と言っても有名なのは、かの平清盛でしょう。
 平清盛は、参議だった永暦2年(応保元年、1161)に一度、権中納言だった長寛元年(1163)に二度、二条天皇の命を受けて公卿勅使になっています。このうち、永暦二年については少し詳しい記事が遺されているので、ご紹介しましょう。
清盛はこの時44才、参議で右衛門督と検非違使別当を兼ねていました。『山槐記』(藤原〔中山〕忠親の日記)によると、彼は永暦2年4月22日に、右大臣藤原公能、蔵人頭藤原忠親らと大内裏に参内します。内裏では二条天皇による神宝を見る儀式(神宝御覧)が行われます。内宮には飾りの付いた剣・赤く塗られた弓矢・錦の蓋のついた鏡箱や御幣など・神の装束・葦毛の彫馬などが五つの櫃で、外宮には剣、弓矢、鏡箱など、彫馬で四つの櫃で、そして荒祭宮に獅子形、つまり狛犬と唐獅子のセットの櫃で送られる、という内訳でした。天皇は沐浴した後これらを見て、そののち、御馬の御覧も行われます。そして天皇から清盛に直筆の宣命が渡され、清盛は絹の袋に入った宣命を首にかけて退きます。この後、辰時の終わり頃(午前9時頃)に勅使は出発し、天皇は伊勢神宮を遙拝します。今回の参宮は25日、帰京は28日と定められており、今日のうちに甲賀駅家(斎王群行なら二泊目の頓宮)に着く必要がある、という急ぎ旅でした。そして25日には、清盛から、巳時(午前10時頃)に参拝する旨連絡があったことが記されています。さらに28日の巳時には帰京したとあり、すべて予定通り行われたことがわかります。25日に両宮を参拝するためには、24日の夕刻には度会郡の離宮院に到着しておく必要があり、23 日には鈴鹿峠を越えて、伊勢国に入っていたことになります。まさに強行軍だったといえるでしょう。

そして、清盛が斎宮の北面道路を通ったのは4月24日の午後と考えられます。南面道路を神宝が通る時、北面道路を行く清盛一行を、斎宮の女房たちはやはり桟敷を並べて見物していたことでしょう。前述した藤原宗忠が五日かかった道を三日で飛ばしてきた、このあわただしい勅使は、斎宮に仕えた女性たちの目にはどのように映ったのでしょうか。
平安後期となると都と伊勢をつなぐ幹線道路はかなり維持が難しくなり、川は海沿いの河口部を選んで渡ったという記録などもあります。そうした旅のひととき、よく管理されていた斎宮の北面道路や、未だ雅を残していた斎宮そのものを、清盛はどのような思いで見つめて通ったのでしょうか。斎宮の立地する多気郡は、彼ら伊勢平氏の出身地説もある所です。
当時の斎王は、後白河天皇の皇女好子内親王が勤めていました。この斎王は二条天皇が亡くなった後、大変苦労して帰京したという記録が残っている人ですが、この頃には自分の未来を知るよしもなく、「今回のお使いはとてもあわただしい方でしたこと」などと話をしていたのかもしれませんね。

榎村寛之

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