第37話  燃える応天門を見ているのは誰だ

 現在開催中の展覧会『ファッションと暮らしの今昔−昔のしぐさはちょっと違う−』の目玉展示の一つは、前回もご紹介した『伴大納言絵巻』の明治時代の詳細な写本です。燃え落ちる応天門を見上げる群衆は、この絵が描かれた平安時代後期の一般的な京の市民を描いたものと考えられ、当時の市民生活を知る上でもいろいろな情報を拾うことができます。その中で前回は、野次馬の中に扇を翳して火事を見上げている人がいる、ということを書きました。
 扇を持った人々をさらに詳細に見ていて、彼らに面白い共通点を見付けました。
 実は、この火事の場面に描かれたほとんどの人々は、裸足で描かれています。朱雀門から応天門のあたりに描かれている中で、足下がわかる大人は40人あまり、そのうち裸足でないのは、黒い浅靴を履いた3人だけなのです(あと、両手に靴を以て走っている人が1人います)。そして浅靴を履いている人は、朱雀門前の従者を連れた1人がよくわからないのですが、朱雀門から応天門の間にいる人は、狩衣姿(肩の所が空いている上着で、裾を袴の中に入れていない)で、扇を持っています。彼らはそれなりの身分、例えば六位程度の官人の可能性が高い人たちなのです。一方、裸足の人たちはほとんど単衣の水干(肩が開いているが、袴の中に裾を入れている衣装、厳密には、襟の止め方が異なる)で、いかにも庶民という描かれかたをしています。
 そして目を朱雀門の内側に向けると、どうもこちらには靴を履いている人が多いのです。現在展示している範囲では、足下がわかる8人のうち3人が靴を履いています。そしてその後ろには、もう少し靴を履いている人がいるのです。
 朱雀門の内側は朝堂院(朝廷の政務の中心施設)ですから、そこで見上げているのは、貴族・官人やその従者でしょう。身分の高い者が靴を履くのは当然のことといえます。身だしなみとして扇を携帯するのも普通にあり得ることです。
では、この絵巻の描かれた平安時代末期の京では、庶民はほとんど裸足、貴族・官人でないとなかなか履き物も持てなかったことがわかる・・・のでしょうか。
 実はそうではないのです。今回展示している『年中行事絵巻』には、草履のような草鞋のような、履き物姿の庶民が数多く描かれています。そしてなにより、同じ『伴大納言絵巻』でも、京の街頭の場面では、道行く人の半数以上が、履き物姿で描かれているのです。
 ではなぜ応天門の門前にだけ裸足の人たちが描かれているのでしょう。私は、他の場面で描かれている庶民の履き物が、紐で足に何重にもくくりつける、つまり草鞋のような形をしていることに注目します。草鞋は履くのに時間がかかるのです。
 とすれば、応天門の前の庶民たちは、「草鞋を履く間もなく駆けつけてきた人たち」というイメージで描かれているのではないでしょうか。つまりこの場面での裸足の人々は、日常生活ではなく、場面の緊迫性を高めるために描かれたものと理解できるのです。

 そしてこの場面には、もう一つ重大な特徴があります。描かれている人が、ほぼ全員男性なのです。彼らは火事の知らせに慌てて朱雀大路(平安京中央を南北に走るメインストリート)から朱雀門の中に飛び込んできたのでしょうが、それにしても男ばかりというのは何とも解せません。火事場という特殊な光景なので、女性は入れなかったのでしょうか。朱雀門は全く警備されておらず、入りたい放題になっています。
 この謎のヒントは、絵巻の詞書にありました。
 「右兵衛の舎人で、東の七条(左京七条)に住んでいた者が、夜更けに家に帰ろうとして、応天門の前を通った時、階上より伴善男、その子、雑色のときよ(史実では紀豊城、という人物)、らが下りてきた。何をしているのか全くわからなかったが、三人は降りてくるとすぐに走っていってしまった。舎人が二条堀川あたりにさしかかった時、内裏の方で火事だ、という叫びが上がり、大路が大騒ぎになった」というのです。『伴大納言絵巻』と関係が深いという、『宇治拾遺物語』でも、ほぼ同様の内容になっています。
 つまり、応天門の火事は、夜中のできごととなのです。絵を見てもこれが昼間なのか夜なのかはほとんどわからないのですが、火事場にかけつける検非違使を先導する従者は、たしかに松明を持って走っています。そして応天門の変の記録を『日本三代実録』貞観八年(866)閏三月十日の記事にも、「夜。応天門火」と、夜間の火事であることが明記されていました。
 このことから考えると、火事場に男性ばかりがいるのは、当時の習慣として、女性が夜中に外出することがほとんどなかったからではないか、と推測できます。つまり、夜間の朱雀大路は女性が歩いておらず、物見高く飛び出して来るのも、男の役割とされていたからではないかと思えるのです。
『年中行事絵巻』や同時代に描かれた『扇面法華経冊子』などでは、女性の街歩きが普通に描かれています。女性は外に出ないもの、というわけではありません。しかしそこでも、ほとんどが2人、3人と連れだっている様子が描かれています。女性の一人歩きは決して普通のことではありませんでした。
『伴大納言絵巻』の火事場の群集は、平安時代後期の平安京が、夜間に女性だけで外出できるほど安全な所ではなかったことを教えてくれているようです。
 『日本三代実録』仁和三年(887)八月十七日戊午条には、平安宮内の宴の松原を三人の女性が歩いていた所、一人が鬼らしき者に食われてしまった、という話が記録されています。この噂話は長く記憶されていたらしく、平安時代末期に編まれた『今昔物語』巻第二十七の第八話にも見ることができます。そこでは最後に「だから、女がこのように人のいない所で、知らない男にうっかり心を許すのはしてはいけないことだ。大変恐ろしいことである。」と締められています。
 平安時代の夜、女性の外歩きは、やはり危険を伴っていたようです。

榎村寛之

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