第27話  わたしは誰に仕えているの

 斎宮の暮らしは、都での皇族や貴族の姫君の暮らしと、それほど変わらなかったものと見られています。しかしもちろん、斎く、つまり神に仕え、清澄な状態を保つのが大事な仕事ですので、色々な制約があります。その代表的なものが忌詞(いみことば)といえるでしょう。
 忌詞は、仏教に関する単語と、ケガレに関する単語を、別の言葉で言い換えるための特殊な言葉です。斎宮の忌詞については、平成22年度の『斎宮歴史博物館研究紀要二十』掲載の筒井正明「斎宮の忌詞に関する雑録」がまとめていますので、それに基づいてご紹介していきましょう。
 斎宮の忌詞は、九世紀初頭の『皇太神宮儀式帳』に見られる神宮の忌詞に影響されて成立したようです。その仏教に関する部分の内容は、
仏を中子(なかご)、経を染紙(そめがみ)、塔を阿良良岐(あららぎ)、寺を瓦葺(かわらぶき)、僧を髪長(かみなが)、尼を女髪長(おんなかみなが)、斎(とき=僧の食事)を片膳(かたしき)、と言い換えるというものです【神宮の忌詞には尼がなくて、優婆塞(うばそく)を角波須(つのはず)と言うとしています。女性に関係の深い斎宮らしい書き換えといえるでしょう】。つまり、斎宮の女官たちは、
「都では斎王さまのおばさまが女髪長になられて、瓦葺に入られたそうよ」
「じゃ、中子にお仕えして染紙を読む暮らしをされているのね」
(「都では斎王さまのおばさまが尼になられて、お寺に入られたそうよ)
 「じゃ、仏様にお仕えしてお経を読む暮らしをされているのね」)
なんて会話をしていたのかもしれません。
 しかし忌詞は、斎宮で仏教が遠ざけられていたことを示すものではありますが、反面、そうした言葉を使わなければならなかったほど、日常生活に仏教が浸透していたことを示すものでもあるようです。実際、斎宮女御徽子(よしこ)女王が帰京する時に、斎宮から遠からぬ近長谷寺という寺院に白玉一丸を奉納したという話があり、また、元斎王でも出家した例もあります。つまりは、仏教を全く遠ざけるということはできなかったからこそ、忌詞が必要だったと言えるようです。
 そして、このような仏教との関係の難しさは、伊勢神宮本体でも同じ事でした。
 平安時代後期になると、神宮の禰宜や宮司などの神主層の人々も、その地位を後継者に譲ると出家をするという例がよく見られるようになります。神宮関係者だから生涯仏教と離れるというわけではないのです。そして、伊勢神宮の神・天照大神についても、新しい解釈が生まれてきます。近年のそうした研究を代表する、伊藤聡氏の『中世天照大神信仰の研究』【法蔵館 2010年】から拾い読みしていきます。

 大江匡房(おおえのまさふさ)【1041生‐1111没】という平安後期の学者は『江談抄(ごうだんしょう)』という著作の中で、熊野神社と伊勢神宮が同体で、神宮の神は救世観音の変身だと書いています。さらに鎌倉時代までには、天照大神と十一面観音菩薩の同体説も現れます。また同じ頃に、天照大神と密教の中心になる仏・大日如来が同体だという説が出されます。この説は、康平三年【1060】に、皇太子時代の後三条天皇へ提出された『真言付法纂要抄(しんごんふほうさんようしょう)』がその最初とされているのですが、やはり鎌倉時代にかけて、真言宗系の神道である両部神道の中で主張されてくるものです。つまり平安時代後期から鎌倉時代にかけて、伊勢神宮と仏教を結びつける説が色々と出され、天皇や貴族たちもそれを知っていたということがよくわかります。神宮の神は、神の姿をしているが実は仏だという本地垂迹説が定着してくるのです。
 鎌倉時代には、こうした天照大神の解釈は、外宮神官の唱えた伊勢神道なども関係して、さらに多様化・複雑化していきます。たとえば、鎌倉時代後期の僧・無住道暁【1226生‐1312没】の書いた仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』には、
 「天照大神が仏敵の第六天魔王を退けるため、『私は三宝【仏・法・僧】の名も言わない、身にも近づけない』と約束したので、外向きには仏法を憂きこととして、内向きには深く守っている。だから、忌詞を使っていても、我が国の仏法は大神宮によって守られているのだ」
という意味のことが書かれています。この本は説話集ですから、これまでの貴族や高位の僧たちが唱えていたものとは違い、民衆に語ることを意識して書かれています。つまり、鎌倉時代には、神宮は仏を避けているが嫌っているわけではないという考え方が貴族以外にも説かれており、神宮と仏教は深く結びついているのが社会の常識になっていたようなのです。
 伊藤氏の研究では、こうした神宮理解の変化が、斎宮にどのように影響したかは触れられていません。しかし、仏教を拒絶することを基本原則とする斎宮の存在が、次第に時代遅れになっていたことは間違いないと思われます。というのも、鎌倉時代後半になると、これまでに考えられなかった斎王をめぐる不審な話がしばしば見られるようになるからです。例えば、鎌倉時代後期の医僧で連歌師として知られる坂十仏(さかじゅうぶつ)が十四世紀前半の康永元・興国三年【1342】に著した『伊勢太神宮参詣記(いせだいじんぐうさんけいき)』には、外宮の神官から聞いた話として、神宮の神は蛇の姿で斎王の元に通い、その時には斎王の寝具の下に蛇の鱗が一枚落ちていると記しています。神宮の側から斎宮についての噂話が流されているのです。あるいは、『とはずがたり』のような宮中女房の回顧録に後深草天皇が元・斎王に通ったと記されたり、『我が身にたどる姫君』などに風変わりな斎王が出てくるなど、文学作品にもそれまでとは傾向の異なるものが出てきます。
 どうやら伊勢神宮と仏教が色々な新しい理論に基づいて関係を深めようとしている時期に、古式に則り仏教排除を続ける斎宮は、不穏な噂が立てられても文句の言えない立場になっていたようです。斎宮の衰退も、政治的動向の変化に加え、斎宮を必要としない新しい天照大神の解釈に押し流されていった結果とも思えるのです。
 そしてこうした変化に一番迷惑したのは、世間の評価にふりまわされた斎王自身ではないでしょうか。鎌倉時代には、「私は誰に仕えているの。天照大神なのか観音菩薩なのか大日如来なのか、女神なのか蛇神なのか、誰か決めてちょうだい。」という気になった斎王がいたかもしれません。

(学芸普及課 課長)榎村寛之

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