第17話  伊勢と斎院を結ぶちょっと面白い話

 突然ですが、本年は、平城上皇の変からちょうど1200年となります。薬子の変ともいわれるこの朝廷の内紛をきっかけとして、京の守護神である賀茂神社にも斎王が奉仕するようになり、賀茂斎王、また斎院と呼ばれたことは、この連載をお読みの方ならよくご存じのことでしょう。
 さて、今日のお話は、その斎院と伊勢を結ぶ、ある鏡についての物語です。
 といっても、この鏡、伊勢神宮や斎宮とは直接関係はいたしません。出典は、江戸時代末期の弘化五年(1848)、暁鐘成(1793‐1861 大坂の文人、名所図会作者として有名)編の『当日奇観』という本の巻第五「松村兵庫古井の妖鏡」です。これは、それよりかなり以前に出版された、都賀庭鐘(1718〜1794 大坂の文人で医者、上田秋成の先生)著の『席上奇観垣根草』という本を再版改題したものだとか。
 三重県の松阪市内、といってもかなり郊外に、大河内城という城跡があります。室町時代に伊勢国司と守護を兼ね、織田信長に滅ぼされるまで伊勢の支配者として栄えた北畠氏の本城だったこともある所です。この国府、つまり大河内城の西南に大河内明神という社があり、北畠家の尊崇厚かったのですが、ご多分に漏れず、戦乱続く室町時代半ば頃には衰微著しく、嘉吉文安の頃(1441‐1449)には修理もおぼつかないありさまとなっていました。
 そのころ、この神社の神主に松村兵庫なる者がおり、室町幕府管領細川家につてがあったので、京に上って窮状を訴えたのですが、嘉吉の乱で六代将軍足利義教が赤松満祐に殺されたり、ほどなく八代将軍として足利義政が就任したりと物情騒然の折からなかなかよい回答も得られず、ただ待つばかりでした。しかし兵庫はもともと風流人でしたので、この際和歌の道を究めようと、京極今出川に寓居したのです。

 さて、兵庫の仮住まいする所の東北に一つの古井戸がありました。時々人が溺れるという噂のある井戸で、たまたまその年は畿内が大変な日照りというのに、水は涸れることはありませんでした。近隣の人々はこぞってこの水を汲みに来たのですが、ある日、隣家の下女が落ちて溺れるという事件がありました。遺体は数日上がらなかったといいますので、深い井戸なのでしょう。兵庫は井戸の周りに垣をこしらえてやりました。しかし彼も、この不思議な井戸の魔力に抗しがたかったのか、そっと覗き込んでみたのです。
 井戸の中には女がいました。水の中に若く美しい女が。二十歳ばかりでしょうか。美しく装い、艶然と笑う姿に、兵庫の足も我知らず前に出かかりました。しかし彼の精神は強かったようで、はっと我に返ると、これは古井の妖に違いないと飛び離れ、従者にも理由は言わず、ただあの井戸には近寄るなと言い含めました。若い男が理由を聞き、まさかそんなことがと怪しんで覗けば、まず命取りになったことでしょう。
 さて、それから数日後の夜、日照りは一転して暴風雨となりました。樹木は倒れ、屋根瓦は飛び、雨は盆を傾けるよう、稲妻の光は真昼のよう、雷鳴の凄まじさは天地も割れんばかりという一夜がやっと過ぎた夜明けの頃です。家の外に案内を請う女人の声がありました。
 女の声には若い響きがありました。しかし兵庫には都の女性、それも若い娘の知人などおりません。どなたですかと問うと、ただ「弥生と申します」と声が返ってくるばかり。不審に思いながらも扉を開けると、いまだ薄明の中におぼろげにと立っていたのは、まぎれもなく井戸の中にいたあの女人だったのです。
 普通の人なら即、失神という所ですが、兵庫は肝が据わっていました。逆に、
「あなたは井戸の中の女人ではないか、なぜ罪もない人をやたらに殺すのか」と問い詰めたのです。
 すると女人は、
「私は人を殺す者ではありません。この井戸の底には毒竜がいます。竜は水の神ですから、水が涸れないのです。私は昔、この井戸に落ち、以来竜に使われて、人々を惑わして竜の生け贄にしてきたのです。これは大変辛いことでしたが、昨日天帝の命があり、竜は信濃の鳥居の池に移されました。今は井戸に主はいません。どうか私をお救いください。」
 と言うと、いずことなく姿を消しました。
 明けて兵庫は人を雇い、井戸をさらわせました。するとどうでしょう。水は一滴もなく、井戸の中にあるのは、笄(こうがい)や簪(かんざし)といった髪飾り、そして一枚の古びた鏡だけでした。
 兵庫がこの鏡をよく洗ってみると、その背面にびっしり生えた水苔の下から「姑洗之鏡」という四文字が現れました。
 兵庫は、姑洗とは三月のまたの名だと知っていました。そしてあの女人、弥生が鏡の精だったことを気づいたのです。
 鏡は兵庫が手ずから焚いた香で丁寧に清められ、箱に入れられると一間に置かれました。
 そしてその夜、兵庫の枕元に再び弥生が立ったのでした。
「あなた様のお力で数百年の苦しみから逃れ、世に出ることができました。その上結構なお清めまでいただき、数多の辛い事も過去となりました。もともとこの井戸は大きな池だったのを、遷都の時に埋めたものなのです。都を遷した時には神々が助けてくださったので毒竜も逆らえませんでした。私は斉明天皇の時代に百済国より参り、久しく宮中にいたのですが、嵯峨天皇の時に皇女の賀茂の内親王に賜り、後に兼明親王の所に、そして藤原家、ことに道長殿に秘蔵されたのですが、保元の乱の時に誤ってこの井戸に墜ち、毒竜に使われていたのでございます。あなた様が私を将軍家に献上されましたら、きっと幸いを得ることでしょう。そしてここは長く住むべき所ではありません、急いで他所にお移りください。」
 そう言うと弥生は消え去りました。
 翌日、兵庫は早速転宅しました。するとどうでしょう、その次の日、この屋敷の土地が陥没して、家もろともに崩れ去ってしまったのです。
 兵庫は姑洗の鏡を将軍足利義政に献上しました。義政は古美術をことのほか愛玩しており、この由緒ある鏡を大変喜びました。兵庫には南伊勢で1カ所の荘園を神領として神社に寄進し、社殿の再建も公から命令するという沙汰がありました。大河内明神の再建という兵庫の望みは達成されたのです。
 その後この鏡は、ゆえあって将軍家から大内家に下されましたが、陶晴賢によって大内義隆が滅ぼされて後には、行方知れずになった、ということです。

 小泉八雲はこの話をもとに『鏡の少女 The Mirror Maiden』という短編を書いています。嵯峨天皇からこの鏡を下された賀茂の内親王とは、賀茂神社に仕えた斎王(斎院)の初代で嵯峨の皇女だった有智子内親王を指していると思われます。有智子内親王は日本史上珍しい女性の漢詩人としても知られているので、百済渡来の鏡を持つにはふさわしい人選でしょう。
 つまりこの話は、斎院ゆかりの鏡が斎宮近くの神社に幸いをもたらしたという物語なのでした。
 なお、松阪市大河内には大明神山という山が今もありますが、大河内明神という神社はありません。大明神山を神体山にした神社でもないかと探してみたのですが、その西南にはそれらしい神社はなく、江戸時代末期に、郷土史家の安岡親毅(1758-1828)が著した『勢州五鈴遺響』という伊勢の代表的な寺社旧跡を網羅した地誌を見ても、大河内明神についての記載はありません。もしかしたら、大明神山という名前から連想した架空の神社かもしれません。
 また、足利義教が暗殺された嘉吉の変が嘉吉元年(1441)、足利義政が将軍になったのは宝徳元年(1449)ですので、この話のだいたいの時期はわかります。ところが、大河内城は、もともと北畠庶流大河内氏の城で、ここに本家の国司家が入ったのは永禄年間(1558‐1570)、滅亡直前の時期で、しかも城主は元・国司北畠具教なのです。つまり、大河内を北畠氏の国府ということ自体が何ともおかしいのです。
 つまりこの話、内容の割には設定にそれなりの現実味があるようなのですが、意外に雲をつかむような所もあり、何より今のところ地元ではその元になったような伝承は拾えていません。
 さてこの物語、どこまでが本当なのでしょう。小泉八雲の小説には、もとの場所に行ってみても結局わかりませんでしたという終わり方がしばしば見られます。
 これもなにやら、ムジナにつままれたような感じのする話ではあります。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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