第97話  平将門と伊勢と斎宮女御

 先日、東京に出張した折り、かねてより希望していた実地調査を行いました。神田明神、その神宮寺だった日輪寺、そして将門の首塚跡と東京に残る平将門(?〜940)関係伝承地を歩いたのです。伊勢との関係を調べるために。
 平将門の乱は、承平5年(935)頃に、下総国(今の千葉県北部)に勢力を持つ将門が、常陸国(今の茨城県)に勢力を持つ源護兄弟と、叔父である平国香を討ち取った戦に始まります。この時期の戦は坂東での豪族同士の私戦と見なされ、将門自体が京に上って裁判を受けてもいたようです。ところが天慶二年(939)頃に、こんどは武蔵・常陸の国府と闘うようになり、ついに坂東八カ国を支配するまで勢力を拡大します。こうなると国家的な反乱と見なされ、朝廷は反乱鎮圧のために追討使を任命します。しかし追討使の到着前に、一族の平貞盛や坂東の有力者藤原秀郷が、将門攻撃に立ち上がり、将門は戦死したのです
 さて一方、朝廷は将門の乱の鎮定を祈願するため、伊勢神宮に勅使を派遣しました。天慶3年(940)正月のことです。
 この将門の乱に関する祈願については、不思議な言い伝えが神宮に残されました。朝廷からの祈願の際に、多くの甲冑が奉納され、神宮から武装をした神々が海上を東に向かっていくのが見えた、というのです。
 鎌倉時代の1280年代の終わり頃、神宮を統括する祭主、大中臣氏の一族の、通海という僧が著した『太神宮参詣記』には「俗に言うことで、確かかどうかはわからないが」、と前置きして、こういう話を載せています。
 天慶2年(正しくは3年)に将門討滅の勅使が立てられ、成就のあかつきには神郡一郡と封戸を奉ると祈願をしました。するとある夜、神宮正殿の中で人の名を呼んでは弓矢・剣・鉾・甲冑などを数え、渡していく声が聞こえたというのです。また二見浦では、海人たちが甲冑を着た数多くの人が白馬に乗って海上を東に向かい、陸地を歩むが如くに走って行ったのを見たといい、その日に、厩の神馬が水に濡れていた、というのです。
 また、同じ本の別の箇所には、天慶に将門を討った時には、日吉の神を大将軍、住吉の神を副将軍として派遣した、ともしています。
 このように神宮にとって、将門の乱は長く語り伝えられる事件だったのです。しかし伊勢と坂東は、大変離れているのに、どうしてこんな記録が残るのでしょう。
 その原因の一つは、平将門の乱が、『平家物語』の冒頭でも語られるように、長く貴族社会で恐怖の記憶として語り伝えられたことでしょう。しかしそれとともに、その背景には、南伊勢地域と関東南部の意外に深いつながりがあるのではないか、と思います。
 例えば、12世紀後半頃から南伊勢地域で作られ始め、伊勢型鍋と呼ばれた独特の薄手の素焼き土器の鍋がありますが、この鍋は東海地方だけではなく、江戸湾(現在の東京湾)の沿岸地域の中世遺跡でも出土しており、南伊勢地域との海を介した交流の中で伝わったものと考えられています。

 さて、現在の皇居の東北東に隣接する千代田区大手町には、平将門の首塚と称するものが早くからありました。当時このあたりは芝崎村と言われており、鎌倉時代には神田明神や日輪寺(時宗)などの施設も整備されていったようです。とはいえ、このあたりは江戸開府まではほとんど海岸といってもいいような地形だったのです。そして江戸城造営により、神田明神は鬼門(丑寅)の守護として外神田の現在地に、日輪寺は最終的には西浅草に遷され、別れ別れになります。今の神田明神は高台にありますが、日輪寺の山号は今でも芝崎山で、海岸にあった寺の名残を留めています。
 つまり将門についての御霊信仰(非業の死を遂げた人の怨霊を神として祀ることで、その力で守護してもらおうとする信仰)ともいうべきものは、江戸湾に生きる武蔵や下総や安房などの海人によって伝えられていたと考えられるのです。それは南伊勢と交流が認められる地域と重なるものでした。
 南伊勢地域と将門の関係はこれに留まりません。平清盛の祖先は伊勢に土着した平氏で伊勢平氏と呼ばれましたが、その祖先は、常陸の豪族で、将門を討った平貞盛の子、維衡とされています。そしてその本拠は津市街の西郊とも、斎宮にほど近い多気郡河田あたりともいわれ、いずれにしても伊勢の中南部地域だったのです。さらに伊勢平氏は伊勢湾の湾内交通とも深く関わっていたと見られており、関東との交通関係も念頭に伊勢に土着したのではないかと考えられます。南伊勢の側にも将門の乱の関わりがありました。
 また、面白いのは、南伊勢地域に、今も民俗事例として将門に関わる意識が見られることです。旧多気郡・度会郡などを中心に、愛知県三河地方の一部から奈良県南部の一部まで、家の門口に年中注連縄を掛けるという風習があります。そこに付ける木札には多くは「蘇民将来子孫門」と書きます。これは牛頭天王(祇園の神)の信仰に関わる、陰陽道の疫病除けの信仰なのですが、松阪・明和町地域などでは「笑門」と書く例が見られるのです。笑門来福の意味かと思ったら、地元では、「将門」と略すと平将門と同じになるので「笑」に変えているのだと伝えられている、というのです。近世頃の新しい解釈なのかもしれませんが、こんな所にも将門がいました。
 同じく伝承の世界では、志摩半島の南側、紀伊長島に近い紀北町にある有久寺温泉は、平将門の子の将国が拓いた、という伝説があります。将国は伝説上の人物で、常陸国の豪族信田氏の開祖となったというのですが、その言い伝えが西日本にあるのは珍しいのではないでしょうか。
 なお、面白いのは、この将国が後に安倍晴明になった、という伝承もあるらしいことです。「蘇民将来」の木札の裏には、「セーマン」と「ドーマン」といわれる、五芒星と九字の真言のマークが描かれており、このマークは、安倍晴明(セーマン)とそのライバルの芦屋道満(ドーマン)にちなむともいわれるのです。ところがこのマークは略式の「笑門」の札には書きません。将門に連なる晴明を避けて、などと妄想もふくらみます。
 このように、南伊勢地域にまで大きなインパクトを遺した平将門の乱なのですが、さて、斎宮についてはどうだったのでしょう。実は、将門の乱の祈願があった時の斎王は、かの斎宮女御徽子女王(929〜985)なのです。将門は、彼女の母方の祖父、藤原忠平に臣従しており、身近に仕えていた時期もあったようで、全く無縁というわけではありません。祖父の従者が大反乱を起こし、自らが仕える伊勢神宮への祈願で鎮圧された、というこの戦は、遠い関東でのできごとながら、伊勢神宮に関わる生涯忘れられない記憶となったのではないでしょうか。朝廷からの追討祈願があった年には斎王徽子は12才、最も多感な時期でありました。
 後年、円融天皇をはじめ周囲の反対を押し切って二度にわたり斎宮に下向する、という斎宮女御の強靱な意志の力は、少女の頃のこうした経験と強く関わっているのかもしれません。
 このように見ると、平将門の乱と南伊勢地域と斎宮女御は、意外に深い関係があったといえるかもしれないのです。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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