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第103話(番外編3) 県下物産博覧会書類


「県下物産博覧会書類」表紙

「県下物産博覧会書類」表紙

県下物産博覧会書類  民設博覧会を開催

明治前期は、殖産興業政策の一環として、国や府県または民間が主催する博覧会が頻繁に開催された「博覧会時代」だった。中でも規模が大きかったのは国が主催した内国勧業博覧会で、これについて三重県庁に第2回内国勧業博覧会(1881年)の「出品解説書」が残されている。これは当時の県内産業の実態を知り得る貴重な史料で、当グループの本紙の連載でも度々取り上げられてきた。
 また、1878(明治11)年9月には、前年に東京で開催された我が国最初の内国勧業博覧会の気運の高まりを受けてか、津公園(偕楽公園)で三重県主催の「三重県内物産博覧会」が開催された。さらに、その2年後の80年には同じ場所で「三重県下民設博覧会」が開かれている。今回はこの博覧会について紹介したい。「三重博覧会社」という民間団体が会主となって開き、津入江町の芝原七右衛門、津小濱町の岡鹿吉、津魚町の岡嘉平治と辻彦作の4人が中心メンバーだった。このうち岡嘉平次と辻は、73年に専修寺が主催した「一身田博覧会」で「取締」役の経験があった。
この民設博覧会に関する史料の多くは『県下物産博覧会書類』に綴(と)じられているが、その中の一つで閉会後に提出された「景況報告書」によれば、78年の「三重県勧業博覧会」(物産博覧会のこと)以降「第二次会ノ未タ開設ニ至ラザル」ことを「遺憾」に感じ、4人が協議、協力して開会することになったと記している。当時の博覧会への期待の高さがうかがえる。
民設博覧会の規模を示すために、県内物産博覧会との比較を表にした。その規模は随分小さくなっているが、前者の物産博覧会の運営には県税が使われているのに対し、民設博覧会には1154円の「会社費」が使われたようだ。入場料や入場券販売額からは、その額の大きさを察することができる。三重博覧会社にとっては赤字事業であった可能性が高い。こうしたリスクを負うほど彼等を博覧会に駆り立てたのは何だろうか。県庁に史料が少なく疑問が多くわいてくる。
また、気になるのは県当局の立場だ。開催前年12月に県に届けた「三重博覧会規則」の案文には、所々、貼り紙で朱書の訂正が加えられている。中でも出品者の目録提出先を「県勧業課内三重博覧会社出張所」から「津公園内三重博覧会社」と訂正し、また出品物の水火盗難等の免責条文でも「本県勧業課ノ保護ヲ受ケ特ニ物品ノ守衛ヲ警察署ニテ仰グ」という部分が「会社ハ物品ノ保護ヲ尽ス」と改められている。民意を尊重したのか、財政難の時期で補助などもできなかったのか、いずれにしても県がこの博覧会への関与に消極的であるようにみえる。県の真意は何であったのか。今後、新史料の発見によりこうした疑問が解けることを期待したい。
これ以降、県内では県や民間主催の大きな博覧会が開催されることはなかった。ただ、その後における諸産業の発達を考えた時、民間が力をつけるという意味では有効な博覧会ではなかったかと思える。                 
     県内物産博覧会 1878年  県下民設博覧会 1880年
期間 9月1日〜10月15日 4月1日〜5月1日
入場料 1銭         2銭
観客数 7万1160人     2万879人
出品者数   3214人  527人
入場券販売額  602円76銭 368円14銭
列品数 1万171品   1557品

表:県内物産博覧会と県下民設博覧会の対照表

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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