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第100話 御国旗并七国々旗図軍艦見別心得


日の丸や3種のイギリス国旗など

日の丸や3種のイギリス国旗など

御国旗并七国々旗図軍艦見別心得  幕末の緊張物語る

大詰めに近づいたNHK大河ドラマは、黒船来航に象徴される欧米列強の外圧と幕藩体制の内部矛盾の拡大が絡み合い、幕府の崩壊と明治維新に至る激動の時代を坂本龍馬の生き様を通して描いたもので、ご覧になっている方も多いだろう。
今回、紹介する資料は幕末に鳥羽藩の代官を務めた藩士が書写した洋式艦船に掲げる国旗と艦船識別に関する手引書で、ご子孫から寄贈された。本文6丁(12頁)の冊子で、前半には日の丸と幕府海軍旒(りゅう)、そしてロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカの5カ国、さらにプロシア・ポルトガルの2カ国を併せた7カ国の国旗の彩色図と特徴が記されている。後半にはマスト、大砲発射口、煙突などの形状から艦船形式や軍艦、商船などの区別が略図入りで解説されている。
なお、7カ国のうち前の5カ国は1858(安政5)年に日本が修好通商条約を締結した国々で、本資料には交易の条約が済んだ国とあり、後の2カ国は仮条約を結んだ国と記されている。2カ国との条約締結は60年であるため、本資料の原本が作成されたのはそのころと見られる。
さて、53(嘉永6)年にペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航し、幕府に開国を迫った。当時流行した狂歌「泰平の ねむりをさます 上喜撰(蒸気船) たった四はいで 夜も寝られず」は上等なお茶と軍艦の蒸気船をかけ、対応に苦慮する幕府と防備の武士や見物の庶民が騒然とした世情を風刺したものだが、翌年、幕府は日米和親条約に調印した。続いて英・露・仏・蘭の4国とも同様の条約を結び、約二百数十年に及んだ鎖国は終わった。ただし、黒船来航はペリーが最初ではない。18世紀末から薪水食糧の提供や通商を求め、列強各国の艦船が頻繁に出没していた。また、開国後も開港場所以外への黒船の入港もよくみられた。
鳥羽藩は3万石の小藩だが、志摩一円の藩領は太平洋に面し、伊勢神宮に近く、別宮伊雑宮も所在するため、防備を命ぜられた。また、伊勢国の藩領の射和村の豪商、竹川竹斎は勝海舟と親交が深く、「海防護国論」などを著して海防の重要性を説いた。
藩では54年の大地震と津波で崩れた鳥羽城城壁の修築にあたり、砲座数座を設置するとともに、神島や菅島などの離島や的矢湾の安乗崎、弁天崎、船越の退治崎、越賀の岩井戸崎など多くの砲台を築いて海防に努めた。だが、62年に英国商船が的矢浦に、64年に同国商船が浜島港、翌年には同国軍艦が浜島港に来航した。大事件には発展しなかったが、薩英戦争や下関戦争の前後であるため、藩内に緊張が高まったであろう。本資料は黒船の識別に必携の書で、幕末の鳥羽の緊張を物語っている。

2008年8月から始まった「紙上博物館」は100話を迎えました。この間、県立博物館や県史編さんグループの所蔵資料を通して三重の自然と歴史・文化を紹介してきました。そして、14年開館予定の新県立博物館の工事が始まり、展示設計もまとまりました。「紙上博物館」は、11月12日から執筆陣に新博物館整備推進室学芸員を加え、毎日新聞三重版に「続・紙上博物館」としてお届けします。所蔵資料の紹介だけでなく、新県立博物館の基本展示や企画展示の題材なども含めて三重の姿を語ります。ご期待ください。
なお、番外編として次週から3回にわたって、11月3〜7日に県立図書館で開かれる県行政文書文化財指定記念特別展示「県庁に残された文書・絵図」の資料を紹介します。

(三重県立博物館 杉谷政樹)

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