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第99話 「田中繁三氏旧蔵文書」


「伊勢国安国寺定書」(三重県立博物館所蔵)

「伊勢国安国寺定書」(三重県立博物館所蔵)

「田中繁三氏旧蔵文書」  原本史料として貴重

三重県立博物館には「田中繁三氏旧蔵文書」と題する中世文書群が所蔵されている。 故田中氏は津市内に在住していた郷土史の研究者で「三重県警察史」を編さんした。本文書は同氏が収集した1186(文治2)年から1614(慶長19)年までの計95点の中世文書群で、田中氏の死去に伴い、一括して博物館の所管となった。
本文書は巻子に装丁された2通を除いて未表具で、発給された当時の形状をとどめている。また、中世文書として様式の種類も豊富なことから、学術的にも貴重として県の文化財に指定されている。
内容は臨済宗東福寺派の大本山、東福寺に関するものが大半を占める。東福寺の塔頭(たっちゅう)の海蔵院や末寺の三聖寺などの名が散見することから、それら塔頭か有力末寺に伝来したものと考えられる。
そのためか、承久の乱(1221年)で知られる後鳥羽上皇の院宣をはじめ、鎌倉時代の執権で「永仁の徳政令」(1297年)を発した北条貞時の書状、織田信長の妹、市を娶(めと)った戦国大名の浅井長政の禁制など、歴史上著名な人物の文書も含まれている。それに対し、県に直接関係した文書は伊勢国の安国寺に関する文書が1点と非常に少ない。
安国寺は室町幕府を開いた足利尊氏と弟の直義(ただよし)が夢窓疎石の勧めで、元弘の乱(1331年)以来の戦没者の霊を慰めるため各国に設けた寺院で、五山派の有力禅宗寺院が指定された。伊勢国の安国寺には、虎関師錬(こかんしれん)を開山とする神賛寺があてられた。
文書は、1440(永享12)年11月24日付で、海蔵院と推定される院主のほか、6名の僧侶が連署したもので、次の2条についての評議の定書だ。第1条は、伊勢国安国寺内の「諸塔頭」と「諸寮舎」に配分される本山東福寺からの米や銭を厳正に処理するよう指示している。そのうえで、配分について異議を唱える塔頭、寮舎があれば即座に建物や敷地を没収すると規定している。そして、第2条は塔頭、寮舎の境界線について「寸土といえども、他の境を犯すべからず」と、厳密に守ることを求めている。
伊勢国安国寺の旧跡は四日市市西日野町に比定されているが、現在、面影はなく、伽藍なども不明だ。ただ、この文書から、室町時代には複数の塔頭や寮舎が建ち並んでいた様子をうかがうことができる。同時にこの時、塔頭、寮舎間で米や銭の配分や境界を巡っての争いが発生していたことも明らかとなる。
当時の記録には、伊勢国安国寺住持職交替に関する記事が散見される。これは「公帖(こうじょう)」と言って、官寺の禅宗寺院住持職就任に際して発給される辞令の交付記事で、実際には大半が入寺しなかったものと考えられている。それ以外、伊勢国安国寺に関する史料は非常に少なく、本文書は数少ない原本史料として貴重と言える。

(県史編さんグループ 小林秀)

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