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ムラの一員として成長―小学校に残る「郷土教育資料」から


郷土教育資料(四日市市立楠小学校・保々小学校所蔵)

郷土教育資料(四日市市立楠小学校・保々小学校所蔵)


 数年前から県史編さんグループでは、県内の小学校を対象に「郷土教育資料」の所在確認調査を行っている。郷土教育資料とは、大正時代から昭和10年代にかけて、当時の尋常高等小学校(国民学校)を単位に作成されたもので、内容は小学校の校区の地勢・産業・歴史・風俗習慣・伝説・方言・歌謡など多彩な内容を含んでおり、幅広い研究分野への利用が期待できる。同様の調査は1990年代に県立図書館によって行われており、その際に発見されたものは複写物を同館の地域資料コーナーで閲覧できるが、当グループのこれまでの調査によって新たに約90点を発見した。
 こうした郷土教育資料は、「三重県史」民俗編の編さんに利用するため、記事のデータベース化を図っている。その項目は現時点で約9200件にもなっている。その成果をもとに、今回はムラの子どもの役割というテーマで見てみる。
 「子ども」がどの年齢をいうかは、地域や時代によって異なるが、7歳から15歳までを指すことが多いようである。15歳で成人儀礼をすませると、ムラで一人前と見なされ、共同作業などに参加した。
 民俗学では、子どもたちの行事・儀礼にかかわる姿を通して、その存在を「神と人の中間の存在」「神の代理」「やがてくる大人の見習い期間」と解している。また、「子供組」という集団を組織して、ムラの年中行事や芸能を担う事例も報告されている。
 子どもがかかわる年中行事のうち、県内で例が多いのは、山の神・ドンド・亥の子行事である。神戸村(現津市)の山の神行事では、男の子はセコごとに各家を回り薪炭をもらい、夜は一定の場所に大勢で宿泊し、他のセコの子どもとイクサアソビをした。中原村(現松阪市)でも他のセコと山の神の奪い合いをした。そのため、山の神のそばに番小屋を建て、夜通し見張りをした。鵲村星合・五主地区(同)では、1年間で出産があった家の寄付で、山の神に飾り付けやミカンを供え、子どもの中の最年長者の家を宿にして泊った。
 機殿村腹太・井口地区(同)のドンド行事は、子どもたちが小屋を建て、薪を集めて大火を焚き、餅を焼いて食べた。
 赤羽村(現紀北町)の亥の子行事では、ボタ餅を作って神に供え、男の子は朝からイノコ槌(建築の石つきに使った槌を小さく切ったもの)に菊を挿し、その周りに何本かの縄を付けたものをこしらえ、これで地面を突き、亥の子歌を歌いながら各家を回り、その後でボタ餅をもらった。
 ここから、子どもはムラやセコの中で集団として行事を執行し、集団を年長者が率いていたことも読み取れ、「子供組」の存在が推測される。
 子供組については、安東小学校の郷土教育資料「安東村社会調査」(1935年頃作成)で、河辺地区(現津市)に「一五、六歳以下ノ子供連中ニヨル太鼓踊ハ五種アリ」と記され、子供組主催の太鼓踊の存在が確認できる。
 次いで、組織性や集団性ははっきりしないが、子どもたちが農耕儀礼にかかわった事例も確認できる。波瀬村(同)では、苗代に籾をまくとき畔に石を置き、その前にススキやツツジを立て、焼米やアラレ等を供えて田の神をまつり、その余りを集まってきた子どもに与える習俗があった。
 また、人生儀礼の中にも、子どもが登場するものがある。嫁入りのとき子どもたちに「新婦の土産」といって菓子を投げ与える習俗も県内に見られた。桃園村(同)では、婚礼の翌日に組内の子どもを招き「子供の宴」が催された。赤子の誕生後のお七夜(名付け)祝いの席に、ムラの子どもたちを招いてもてなす習俗が旧一志郡内で見られた。このほか、厄年の者が子どもたちに餅・菓子・金銭等をまく習俗も各地に見られる。これを八幡村奥津地区(同)では「厄を拾ってもらう」といって喜ぶのだという。
 子どもたちは、ムラ人の人生儀礼に招かれ、饗応される存在だったのである。お七夜の祝いに子どもを招く習俗は、やがて加わる子ども集団への披露の意味があったと思われる。
 子どもたちはムラの年牛行事や農耕儀礼、通過儀礼とかかわりながら、ムラの一員として成長していったのである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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