トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 炎に飛び込む若衆−盛大だった桑名赤須賀のドンド行事

炎に飛び込む若衆−盛大だった桑名赤須賀のドンド行事


赤(青)イノサン(『赤須賀神明社の石取御神事』より)・『桑名郡習俗慣例取調書』

赤(青)イノサン(『赤須賀神明社の石取御神事』より)・『桑名郡習俗慣例取調書』


 旧暦で1月15日を中心とした前後3日間は「小正月」と言われ、新暦になってもこの時期に様々な行事が催される。正月飾りの門松や注連縄(しめなわ)を焼くドンド(左義長(さぎちょう))もその一つである。揖斐川河口部の桑名郡猟師町(りょうしまち)(現・桑名市赤須賀)では、大正時代までは毎年1月14日に盛大なドンドが行われ、近郷近在からの見物客でにぎわった。
 今回は、この話をしようと思うが、漁師町は昔からシラウオ(白魚)とハマグリなどの貝類を採る漁が盛んで、両漁ともに同地の若衆(わかいしゅ)(若者組)が一切を総理していた。「白(しろ)の若衆(白魚組)」と「巻(まき)の若衆(貝巻組)」の2組があり、以前は毎年7月14日に赤須賀神明社の前で御籤(みくじ)をして組を分けたという。
ドンド行事については、1913(大正2)1月発行の『風俗画報』第441号に「伊勢国赤須賀の左義長」と題した貴重な報告がある。行事に使う飾り物は、10間(18メートル)余りの6本の大竹が中心で、先が2間程度しか見えないところまで周囲に松竹を積み重ね、その上から藁(わら)をかぶせた。かつては桑名の町の門松を持ってきたらしい。6本の大竹の先には、様々な御幣(おんべい)のほか、青赤2種の円形の笠状のものや白鷺がシラウオを銜(くわ)えた形象が付けられた。円形の笠状のものは、別の報告では赤イノさん・青イノさんといい、扇形を組み合わせたものであった(挿図参照)。
 当日午前中、若衆はこの大竹を捧げて各町を練り歩き、浜辺に運んで点火する。点火するのは必ず白の若衆と決まっていて、彼らは身を清め、揃いの衣装を身にまとった。また、炎々と燃え上がる中を裸体で飛び込んで、火の付いた松竹を取る役目が巻の若衆であった。彼らはその松竹を「狂(きょう)せむばかりの勢(いきおい)」で全町を持ち歩き、最後に若衆宿に持ち込んで終わった。翌日、この焼け残りの竹で箸を作り、雷除(よ)けになるという焼け屑(くず)とともに各町の「統頭(おおあたま)連」の家に贈るのが習わしであった。
これより30年前に成立した『桑名郡習俗慣例取調書』では、「猟師町爆竹」として記録があり、それには「ドウド」と記している。また、桑名藩下級武士の記録『桑名日記』にも、1842(天保12)年と45年の1月14日の条に「どう(ふ)ど焼」を見に行ったとある。古くはこのように発音したのであろう。
 『習俗慣例取調書』によれば、ドンドの仕組みも白鷺の作り物のほかに、紙製の月形・日形のものがあったと見え、少し趣が違ったようだ。点火役は白の若衆だが、燃えあがった時、縄でつながれた日形の竹を引き倒し、白魚会社(若者宿と考えられる)に持ち込むのも彼らであった。巻の若衆は月形の竹に火が移る前に取り出す役で、こちらは引き綱がないため火の中に飛び込まなければならなかった。非常に熱く危険であったが、これに時間がかかると不漁になるという迷信があり、彼らは必死であったという。
 なお、これとよく似た竹飾りを焼いて倒すドンドが員弁郡治田郷の新町村・奥村(現いなべ市北勢町)にあったらしい。1912(大正元)年作成の治田尋常高等小学校の『郷土誌』によれば、1月14日の夕刻、大きな青竹に扇面4本を使って満月の形、2本で半月の形を飾り、子どもたちが持ってきた五色の紙幣をこの竹に飾り付け、家々を回って集めた柴・藁の中央に立てて点火し、燃えた頃に竹をその年の明(あき)の方(恵方)へ倒したとある。そして、竹はその場で分けて持ち帰り、翌日小豆(あずき)粥(がゆ)を炊く竈(かまど)にくべたり、屋根の上へ置き火災除けのまじないにした。それは、明治時代なって廃止されたようであるが、近い地域で共通点が多いのは注目される。
 これら猟師町や員弁のドント行事は、県内でも特徴的なものである。そのため、記録に残ったのであろうが、各地にどのようなドンド行事が伝わっているのか調べてみるのも興味深いものである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る