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産業組合による創設―旧東柘植村の更生病院


かつての更生病院の建物(「伊賀町史」から)

かつての更生病院の建物(「伊賀町史」から)


 1933(昭和8)に旧東柘(つ)植(げ)村(現伊賀市柘植町)で産業組合によって創設された「更生病院」の閉院に関する資料が、伊賀市小杉(こすぎ)区有文書の中にあった。その資料は、79年の柘植厚生農業協同組合「総会議案書」と翌80年の「柘植厚生農協解散精算案」である。総会議案書には、同組合で運営している更生病院が、かつて月2千人以上あった患者数が激減し、赤字経営となったため、三重大学附属病院をはじめ、当時の伊賀町、同農業協同組合の支援を受けて医師の確保や借入金の拡大、健康相談日、出張診療を計画するなど利用者層の拡大と病院の存続を図ろうとしたことが記載されている。しかし、翌年に出された解散精算案は、再建計画がうまく軌道に乗らず更生病院が閉院となったことを示している。
 さて、この更生病院は、産業組合法に基づく東柘植村信用購買販売利用組合の一事業部門として発足したもので、第2次世界大戦後の47年の農業協同組合法施行に伴って改称となった。産業組合が創設した病院としては県内で最も早く、このことは意外と知られていない。現在、三重県厚生農業協同組合連合会(厚生連)が運営する病院は各地にあるが、多くは50年〜61年に新設されている。戦前の産業組合による病院は、現鈴鹿市にある38年開設の中勢病院(現中勢総合病院)や42年開設の尾鷲町信用農業会の紀勢病院(58年尾鷲市に移管)などであった。
 産業組合は、1900(明治33)年に組合法が施行され、その後の地方改良運動の進展とともに数が急増し、13(大正2)年末には県内で333の組合数を数えるようになった。そして、「昭和恐慌」による農村の疲弊(ひへい)が社会問題化すると、32年に農山漁村経済更生運動がスタートし、その一環として翌年から産業組合拡充五か年計画が開始された。32年度に県内で経済更生計画の樹立が認められたのは東柘植村を含む30の町村であった。このような背景の中で、更生病院が創設されたのである。
 当初の拡充五か年計画では、事業内容に医療機関に関する記述はない。しかし、38年に産業組合中央会三重支会が出した「三重県第二次産業組合拡充三カ年計画」によると、「医療利用組合ハ一般大衆ノ自主的医療機関トシテ極メテ重大任務ヲ有シ、…第二次拡充計画ノ遂行ニ当タリテハ医療組合ノ主旨ノ普及徹底ト既設組合ノ強化ヲ図リ、可及的速ヤカニ之ガ事業ノ経営ヲ為スヨウ努ムル」として、拡充策の一つとして医療事業を取り上げている。この時、既に東柘植村の更生病院は開設されており、先駆けとして、その活動が評価されていたとも言える。
 こうして、この更生病院は約48年間にわたり存続し、組合員の保健衛生思想の向上と健康管理や地域住民の福祉に貢献したのである。「伊賀町史」によると、建物は総2階建ての純洋風のモダン建築で、柘植小学校への進入路の西側の場所にあったらしい。閉院後も個人病院として使用されるが、今は建て替えられて往時の建物はない。
 ところで、阿山医師会(現伊賀医師会)が発行した「伊賀の医事史」によれば、西柘植村御代(みだい)(現伊賀市御代)でも、わずか数年間の期間であるが、西柘植産業組合による病院経営があったという。現在の伊賀市老人センター偕(かい)楽(らく)荘の場所で、もともと1916年に橋本策(はかる)が開院した橋本病院があった。橋本策は、九州大学医学部在職中にドイツの医学雑誌へ発表した論文によって甲状腺腫の病名「ハシモト病」の名称にもなっている人物であった。34年に腸チフス感染がもとで亡くなり閉院すると、西柘植産業組合の病院が、その建物を使用したようである。
 偕楽荘の駐車場には、橋本策の顕彰碑が建ち、彼の遺品は、伊賀市柘植歴史民俗資料館に寄贈され、展示もなされている。このような更生病院や橋本病院など、地域医療に関する歴史的な資料は数少なく、今後の資料発見に期待したい。

(県史編さんグループ 服部久士)

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