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地元誌に見る改修工事―明治〜大正期の熊野街道


海野隧道(古里歩道トンネル)ー『三重県の近代化遺産』よりー

海野隧道(古里歩道トンネル)ー『三重県の近代化遺産』よりー


 2004年(平成16)7月、熊野古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界遺産に登録された。そして、今年の2月10日には尾鷲市に「熊野古道センター」も開館した。多くの人たちが熊野古道を訪れ、峠の石畳道を歩き、道標や路傍の石仏に昔日の面影をしのぶことができるようになった。この古道は、今後も文化遺産として保護が進められていくであろうが、東紀州地域の発展には道路の改修や高速道路の建設も必要であり、現在一部開通した近畿自動車道紀勢線の東紀州への早期延長が強く望まれている。
 東紀州地域は、古くは峠を歩いて越す熊野古道や海運が主たる交通の手立てであったが、熊野灘が荒れているときは何日も航海を見合わせなければならず、明治期以降、車馬の通行できる街道の整備が課題となってきた。1886(明治19)年〜88年には、一部で街道改修工事がなされ、県庁文書の中にも当時の関係図面などが残存している。
 しかしながら、その工事は抜本的なものでなかったようで、1903年には北牟婁郡の町村長らが「車道期成同盟会」を結成して熊野街道改修促進運動を展開した。そして、06年には県会で長島(現紀北町)〜尾鷲間の改修案が議決され、翌年から20か年の継続事業として本格的な改修工事が始まった。この工事の設計など中心になったのが県土木技師・岩井藤太郎であった。岩井は1873年生まれで、第三高等学校(現京都大学)工学部土木科を卒業後、門司市の技師を経て1905年5月に三重県技師となる。まさに熊野街道改修工事に要請された格好で、三重県に赴任してきたわけである。
 その岩井が1912年1月発行の「三重斯民(しみん)」(第2 編第1号)に「熊野街道改修工事」という報文を寄せている。今まで紹介されたことはないが、当時の熊野街道の様子や工事の内容をうかがうことができる。まず、街道は「明治二十年頃一度改修されて…車道を造つたが、…勾配が急で屈曲が多く、恐ろしく迂回しておるので誰も通るものがない」状況であったという。また、尾鷲は「郡中第一の繁華なる処にも拘らず、人力車が一つもない。此(これ)は有つても乗り出す処がないからである」とも記される。当時県内に約4,000台もの人力車がありながら、尾鷲には1台もなく、いかに陸上交通が不備であったかがわかる。
 改修工事の内容は、幅9尺(2・7b)の道を12尺に拡張し、勾配も緩やかなものとするものであった。その間には大小7か所の隧道(トンネル)を設け、総延長で2里14町(約9・3`)が短縮された。特に隧道は発破の煙除去のために発動機による換気装置を装備して工事を進め、隧道入口は赤煉瓦で飾った。隧道の設計は岩井が行い、長島・海野・道瀬隧道と三浦・尾鷲隧道には設計者名を刻んだ銘板が残っているという。このうち、前3か所の隧道は、今も生活道として利用され、2001(平成13)年に登録有形文化財に指定された。
 改修工事の設計や内務省への認可申請などの期間を経て、1909年度から着工されたが、20年間の継続事業はあまりにも長すぎ、「日新ノ時勢ニ適応セサル…県経済ノ為メ得策ニアラサル」ということで、11年12月の県会では工期短縮の建議がなされた。県はこれを受けて9年間計画を早め、1917(大正6)年4月に竣工し、5月10日には尾鷲町で開通祝賀会が開催された。この開通によって車馬の交通が自由になり、これまで津から尾鷲まで2日の行程であったものが、1日で到達することも可能となったようである。
 なお、工事完了の翌18年に弘道閣が発行した「三重県史」にも、熊野街道改修工事に関する記述があり、それを読むと、前述した岩井の「三重斯民」の報文そのままのところが多い。「三重県史」の記述にあたり、直接設計を担当していた岩井の報文を引用したようで、説得力があったのだろう。ただ、岩井については、14年度の県職員録に名があるものの15年度には見られず、改修工事の見通しがついたためか、三重県を去っている。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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