トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 身近に残る戦争遺跡−明治期地形図に記載された陸軍基地

身近に残る戦争遺跡−明治期地形図に記載された陸軍基地


陸軍基地などを表記した明治期の地形図

陸軍基地などを表記した明治期の地形図


 また8月15日の終戦記念日が巡ってくる。戦後60年が経って、戦争を知らない人も増え、戦争が遠い記憶となりつつある。そこで、今回は明治期の地形図から発見した陸軍墓地の話をしてみよう。
 1908(明治41)年、各方面からの請願が実って陸軍歩兵第51連隊が旧久居町へ設置された。あわせて歩兵30旅団司令部と津衛戍(えいじゅ)病院(現在の三重中央医療センターの前身)も同地に設けられ、その他の軍関係施設も造成された。
1911(明治44)年発行の大日本帝国陸地測量部(現在の国土地理院の前身で、当時は参謀本部が管轄していた)の2万分の1地形図「久居町」によれば、旧久居市明神町の大釜池近くに射撃場・歩兵作業場・陸軍墓地の文字が見える。今も地形図や住宅地図などにそれらの痕跡が読み取れ、歩兵作業場跡は久居農林高校の実習農場に、射撃場跡は公務員住宅地などに転用されている。しかし、陸軍墓地跡はどうなっているか、地図では見当がつかないので、現地に行ってみたが、それと思われる小高い丘も潅木と夏草で踏み込むことすらできなかった。
 この陸軍墓地がどのような経緯で設置され、いつ廃止されたのかも定かではない。陸上自衛隊久居駐屯地広報室にお伺いしたが、不明とのことであった。昭和初期から近くにお住まいの古老によれば、「的場の土手からは今も時折錆びた銃弾が見つかる。墓地には衛戍病院での死者が葬られたと父から聞いているが、戦後壊された」という。ただ、実際に第2次大戦後まで墓地として機能していたのかどうか確証はない。
 一方、1925(大正14)年、ワシントン軍縮体制のもとで第51連隊は廃止となり、代わって陸軍歩兵第33連隊が愛知県守山から同じ久居の兵舎に転営してきた。それ以来、久居と周辺の町村は第33連隊とともに歩むことになるが、旧久居市野村町の宮池 (野田池)の東側には第33連隊に関わる陸軍墓地が残っている。合祀碑が2体あり、説明板によれば、まず、1934(昭和9)年、満州事変以来の戦没者を慰霊するため、旧野村神社の跡地に合祀碑ができ、続いて36年に満州事変戦病歿者合同墓碑が建立されたとあり、今も郷友連盟の方々によって慰霊が続けられている。また、すぐ近くには43年建立の「軍馬軍犬之碑」もある。しかし、先述の明神町の陸軍墓地との関連はわからない。
 そもそも、明治初期の陸海軍開設以来、病死者や事故死者もあって墓地の設置が必要で、陸・海軍埋葬地や埋葬規則が順次整備され、日清戦争時からは「戦時陸軍埋葬規則」「戦時海軍死亡者取扱規則」のような戦時規定が加わる。さらに、昭和期になると、予想を超える戦死者数に個人墓碑から合同慰霊碑へと切り替わっていくとともに、それまで禁止されていた献花台や灯籠などの設置が認められるようになり、慰霊の空間が一段と整っていく。こうした中で、明神町にあった陸軍墓地の個々はどこかに移転あるいは合祀されていったと考えられる。
 このようにして、かつて存在した軍隊関係施設の場所はやがては全く分からなくなってしまうであろう。今回のように、地形図に表記があり、近くに住む人がその存在を記憶している場合でさえ、その詳しい経緯がわからない。記録のない防空壕など、もっと身近にも戦争に関する遺跡があるはずで、戦争の悲惨さを後世に伝えるために、今のうちに地域の古老たちから聞いて書き留めておくことが重要であると思う。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る