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校友会誌に「多才」ぶり−童謡作曲家・弘田龍太郎


「浜千鳥」の楽譜が刻まれた津高校中庭の記念碑

「浜千鳥」の楽譜が刻まれた津高校中庭の記念碑


 弘田龍太郎といえば、「靴が鳴る」「春よ来い」「雀の学校」「浜千鳥」「叱(しか)られて」など数々の童謡の作曲家として多くの人に知られている。しかし、10歳〜17歳の少年期を三重県で過ごしていたことは意外に知られていない。津駅前のアスト津4階には、龍太郎が使用したピアノが置かれている。また、県立津高等学校の中庭にある「弘田龍太郎の碑」が三重県との関わりをわずかに物語っている。
 弘田龍太郎は、父正郎の出身地である高知県で生まれる。1902(明治35)年、10歳の時に父が千葉県立師範学校長から三重県立第一中学校長(現県立津高等学校)に就任したのに伴い、千葉県立師範学校附属小学校から津市養正尋常小学校(現養正小学校)に転入している。
 さて、龍太郎は05年に、父がいる第一中学校へと進学する。最近、県史編さんグループに「第一中学校校友会雑誌」のコピーを寄贈いただいたので、早速、34号〜41号で彼の学生時代の様子などを探ってみたところ、音楽一筋ではなく、多才な面が浮かび上がってきた。
 第4学年(16歳)の時に、「書物について」と題した演説調の論説を掲載し、著名な人と出会える機会は中々得られないので、プラトンやミルトンの言を借りて読書の法を述べている。しかし、何といっても音楽の才能は抜きんでていたようで、講談会での教員との合奏は「前途望多き楽人」と評され、春の講談大会での独唱は、「いつもながら感服、場外の春風と和して妙」があると周囲の人々に感動を与えている。
一方で、彼はスポーツにも励んでいた。「三中武術大会出演記事」で第三中学(現上野高等学校)での撃(げき)剣部(けんぶ)(剣道部)の試合に、初陣(ういじん)として名を連ねている。この時は、「龍児(りゅうこ)の時代」と言われ、腕前はまだまだ未熟であったようで、あえなく敗退している。しかし、8月に平安神宮で行われた大会では、神奈川師範生と戦い、小手(こて)を2本決めて見事に勝利を飾るのである。
 最終の5学年では、音楽に益々磨きがかかり、三味線が優れていることを「邦楽論(ほうがくろん)」と題して述べている。邦楽を重視する姿勢は、龍太郎の母が一絃琴の奏者であり、その影響を受けているのかもしれない。さらに、独唱のほか、教員とヴァイオリン、オルガンの合奏、「陳川(ちんせん)海軍同志会之歌」や「宇治川に就きて」、「短銃の響き」という題名の作曲を行うなど創作活動を盛んに行っている。そして、校内の端艇(たんてい)(ボート)競争会では、5年生チームの漕ぎ手の一人として出場したことが記されている。
第一中学校卒業後も、「東京音楽学校の外面的観察と内面的観察」と題して進学した東京音楽学校を校友会雑誌に紹介している。また、弘田一紅の名で「余韻嫋々(よいんじょうじょう)」と題して日本音楽史の10項目の小話や伝説などを投稿している。
弘田龍太郎が三重県で生活していたのは、わずか7年程であるが、感受性の豊かな時期であり、多くの事物や風景、人物との出会いが、彼の音楽人としての感性を研ぎすましていったであろう。そして、音楽以外にスポーツの分野でも活躍するなど、多才な面も持ち合わせており、人間的な幅広さを感じる。
近頃は、童謡を聴いたり、歌ったりする機会も少なくなっている。彼のメロディーを街中や校内に流してみるのも、歴史活用のひとつではないだろうか。

(県史編さんグループ 服部久士)

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