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襖の裏から貴重な資料−明治期の松名瀬製塩業


襖の裏張りに使われていた明治期の文書 (右側の○が襖の引手跡)

襖の裏張りに使われていた明治期の文書 (右側の○が襖の引手跡)


 昨夏のことであるが、県史編さんグループに襖(ふすま)の下張り文書が届けられた。久居市(現津市)の旧家で襖の張り替えをした表具店の方が、三重県庁の罫紙を使い明治期の年号が書かれた文書などが多数裏張りに使われているのに気づき、表具店の知人を経て当グループに情報が入ったのである。断片であり、資料的価値は少ないかと思われたが、その中に、県庁文書とは別に旧飯南郡西黒部村松名瀬(現松阪市)の製塩業に関する資料が含まれていた。これまで「県史あれこれ」や「発見!三重の歴史」でも、古代から近世までの製塩業の歴史について触れているが、今回は近現代に焦点を当てて三重県の製塩業について見てみよう。
  今回見つかった資料は、1905(明治38)年5月11日付けで松名瀬製塩組合の統領や南中釜・北釜・西釜・東釜・山釜の各釜頭たちが連名で名古屋塩務局東黒部出張所へ提出した調査書の控えである。
  明治政府は、日露戦争で膨大な軍事費を要したため、財政補填と安価な台湾産の外塩から国内塩業を保護する目的で、この年の1月に塩専売制を公布し、6月から施行した。これに先立ち、全国の製塩業の調査が実施されており、今回の資料はその時の関係資料ではないかと思われる。また、塩務局とは、同年4月に塩専売に関する事務が大蔵省管掌に定められた時に専売制を実施・監督するために設置された機関であり、三重県は名古屋塩務局の管轄下にあった。東黒部出張所については、『東黒部塩業史』(78年発行)に記述が見られるが、今回の資料によって、05年5月には東黒部出張所が存在していたことや松名瀬製塩組合は5組の釜のグループに分かれていたことが明らかになった。日本専売公社名古屋地方局塩業部が66年に発行した『東海地方の製塩史』によると、県内には津・東黒部・神社(かみやしろ)・鳥羽の四ヶ所に出張所が設置され、専売制発足当時の東黒部出張所管内には、144人の製造人と65町余の面積の製塩場があり、年間7、800升余、約4.7dの生産量があったことが記載されている。
 資料中の明治35年度生産額調査表では、4反ほどの塩田があり、収穫量は1、378俵、220石4斗8升で、塩1石あたりの生産費が2円57銭と記されている。その内訳として、燃料75銭7厘・労働費94銭8厘・修繕費14銭9厘・俵製造費12銭5厘・租税4銭5厘、その他54銭6厘などと細かく記載されている。これによって、松名瀬では塩1俵が約1斗6升入であったことや具体的な数字から当時の生産状況をうかがい知ることができる。さらに、生産者が包装の際に使用する烙記(らくき)符号報告や俵数の調査報告などがあるが、残念ながら欠損部分が多い。
 ところで、三重県の製塩業は、専売制実施からわずか5年後の1910年に「製塩地整理に関する法律」の公布に伴う第1次塩田整理によって廃業に追い込まれた。東海地方では愛知県の一部を除いて静岡・三重県内の塩田は明治末期で姿を消すことになる。
 なお、第2次世界大戦末の44(昭和19)年には、窮乏する物資を補うため、届出のみで自由に製造できる自給製塩制度に変わり、松名瀬の浜辺には松阪市営や西黒部村営の塩田が45年の大戦終了直後に復活した。しかし、その塩田も新塩専売法が施行された49年には廃業している(『松阪市史』)。当時の市営塩田の従業者で地元に居住する方に話を聞くことができたが、櫛田川河口の自給製塩の塩田のあった場所は、今では海浜も衰退し、その面影は見られない。
  今回は、襖の裏張り文書から思わぬ発見をすることができた。身近な所に、まだまだ多くの貴重な資料が眠っているのではないだろうか。

(県史編さんグループ 服部久士)

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