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定置網の敷設で紛糾も−鰤の漁獲地として知られる熊野灘


写真 ・明治期の九木浦鰤敷網水揚げ風景(『三重県写真帳』)

写真 ・明治期の九木浦鰤敷網水揚げ風景(『三重県写真帳』)

今回発見の襖下張り文書

今回発見の襖下張り文書


 本欄の第17号で、襖(ふすま)の下張りから松阪の製塩業に関する資料が発見されたことを紹介したが、昨年末にまた別の下張り文書が届いた。その中に1903(明治36)年6月30日付けで尾鷲町漁業組合長が出した「事由書」がある。内容は九木浦(現・尾鷲市)で「鰤(ぶり)大敷網」を敷設したため、入会(いりあい)漁場が制限されているというものである。
「鰤」と言えば冬の味覚で、今は養殖が多いが、天然の鰤となれば殊更美味しい。熊野灘は鰤の漁獲地としてよく知られ、富山湾と並び大型定置網の漁業が盛んである。定置網漁法は、魚の通る道に垣根状の網を張り、これにぶつかった魚が知らないうちに網の中に入ってしまうという仕掛けである。特に鰤を獲る大型定置網は「鰤大敷網」と言われ、熊野灘では陸地から300〜500b離れた箇所におおむね300×100bの規模で設けられている。
 『三重県定置漁業誌』によると、こうした鰤大敷網の導入は、北牟婁郡島勝浦(紀北町)が最初であったという。1897年、県水産試験場の初代場長から宮崎県の鰤大敷網が地形も類似し有望であることを聞き、地元の有志2名が宮崎県に赴き手法を学んだ。帰村後、資本金5,000円・1株10円として呼び掛けられたが、当初はなかなか賛同者が集まらず、苦労の末、翌98年になって大敷網が敷設された。
 そして、99年には九木浦でも「鰤(ぶり)大敷組合」が組織され、宮崎県から老練な技術者が招聘され、約27,000円の経費を要して大敷網が敷設された。これが第1号大敷網で、「予想外の好成績」を収めたことから、翌年には第2号の大敷網も設置され、さらに周辺の地域にも広まっていった。古泊浦(熊野市)では、静岡県の漁業者が来て1898年から大敷網を設けていたが、1900年には須賀利・梶賀浦(尾鷲市)のほか白浦(紀北町)が敷設し、その後も尾鷲町をはじめ贄浦・阿曽浦(南伊勢町)、錦浦(大紀町)、早田浦(尾鷲市)などが順次その経営を始めた。
 ただ、大型定置網が各所に敷設されると、魚道の確保や魚群の誘致方法をめぐってさまざまな問題も起きた。特に尾鷲町では、01年水産株式会社を組織し、九木浦第1号大敷網の東北約500bという近距離に同様の網を設置した。それに対して、九木浦では「其影響ヲ蒙リ損害大ナル」ことを危惧し、水産会社の免許取消処分を訴えることなども行われたが、最終的には尾鷲湾各浦の漁業組合が協議を重ねて、03年9月30日付けで漁場協定契約を結び、円満に解決した。冒頭に述べた襖の下張り文書は、このときの協議過程の資料であり、尾鷲町側の主張であった。また、07年に同水産会社が免許を得た「鰤飼付漁業」は、撒餌(まきえ)によって鰤の魚道を大きく変えるものであったため、九木浦漁業組合では県を相手に行政訴訟を起こし、免許取消しを求めた。裁判の結果、免許取消しが決定され、01年に敷設された同会社の大敷網も「近距離ニシテ常ニ脅威ヲ蒙リ紛糾葛藤ノ原因」になるというので、九木浦漁業組合にその漁業権が委ねられたようである。
 こうした鰤大敷網をめぐる漁場問題の資料は、1971(昭和46)年の『尾鷲市史』編さんのとき、関係資料がまとめられて孔版印刷されているものの、今回の襖の下張り文書などは収録されておらず、当時の詳しい状況を知る有効な資料である。
 なお、九木浦の2か所の大敷網は、敷設場所や構造を変えながらも現在に継続されている。100年以上も続くわけで、その間には多くの鰤が水揚げされてきた。ちなみに、第1号大敷網における年間の最高漁獲高は1935年の160,000尾で、翌36年4月4日には1日で46,000尾が獲れたと言われ、また、「九鬼町紹介ホームページ」によれば、55年3月15日にも約30,000尾の水揚げがあったらしい。しかし、最近は下降気味であると聞く。元旦には、豊漁を祈願して鰤敷網に獅子舞いを奉納する風景がテレビで放映されたが、その願いが叶って欲しいと思う。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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