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農工銀行の変遷見つめ−街角の小さな土蔵


塔世橋南詰めに残る旧三重県農工銀行土蔵

塔世橋南詰めに残る旧三重県農工銀行土蔵


 『発見!三重の歴史』は、1ケ月あまり前に120話を終えた。最後のテーマには熊野市の「花井(けい)の紙」について取り上げたが、それを読まれた花井出身の人から「今も原料の雁皮が多少採れるので、ぜひ『花井の紙』製造を再現してみたい。詳しい製造関係資料を教えてほしい」という熱い思いで電話をいただいた。ありがたく感じるとともに、続編を記すに当たって、県内各地の歴史掘り起こしに更に力を入れていきたいと改めて思う。
  さて、新年度も始まり、少し暖かくなった。野外に出て、ちょっと変わった建物や記念碑などに注目し、その歴史を探ってみるのも一興である。
  県史編さんグループが所在する県栄町庁舎(旧県民サービスセンター)の近くにも、以前から気になる建物が残っている。それは塔世橋南詰めの安濃川沿いに建つ土蔵である。さほど大きくない切妻造りの瓦葺きの建物で、ていねいな石組で基礎が造られている。現在は三重市町村会館の倉庫として利用されているが、明らかに第2次世界大戦前の建築物で、激しかった戦禍を免れて残ってきたものである。かつてはこの地に三重県農工銀行本店があり、農工銀行の付属建物として建てられたらしい。
 ちなみに、農工銀行とは1896(明治29)年の農工銀行法に基づき、農工業の改良発展のための貸付を目的として各府県に1行ずつ設置された。三重県では、翌年12月18日に三重県会議場で創立総会を開き、98年3月1日から営業を開始し、99年3月には百五銀行から県金庫事務も引き継いだ。銀行の建物は初め仮のものであったが、1901年11月にこの土蔵が残る場所に新築し移転した。1914(大正3)年以降は松阪・上野・四日市・山田など、県内各地に支店も開かれ、さまざまな農工業発展のための資金を提供してきた。主な放資事業を『三重県農工銀行十年誌』から見てみると、桑名郡長島村用悪水路樋管普通水利組合排水事業、四日市電灯株式会社供給事業、度会郡四郷村大字楠部耕地整理事業、志摩郡甲賀村耕地整理事業、阿山郡壬生野村田代池修築工事、南牟婁郡南輪内村基本財産造林事業などである。もちろん、それ以外にも多くの資金が農工業者に貸し付けられた。1936(昭和11)年下半期の例では、貸付口数47、427のうち農業者が32、837を占め、まさに農家のための金融機関であった。
  こうした貸付業務も農工銀行が資金不足に陥り、各県の農工銀行も日本勧業銀行の資金に依存するようになった。三重県農工銀行でも、1908年すなわち営業開始10年後から勧業銀行の代理貸付が行われたようである。そうした状況に応じ、政府は1921年に勧農合併法を制定し、日本勧業銀行と農工銀行の合併を勧めた。半数以上の県が1930年の第2次合併までに合併を行ったものの、三重県農工銀行はなかなか合併しなかった。37年1月ようやく合併し、三重県農工銀行は日本勧業銀行津支店となったが、その時の勧業銀行石井光雄総裁が三重県出身で、話が円滑に進んだとも言われている。
 今に残る小さな土蔵から三重県農工銀行変遷の概要に触れたが、土蔵の詳しい建築年次や設計者は不明である。ただ、1910年頃の塔世橋を撮影した写真にこの土蔵はなく、1934年の花崗石材を使用した旧塔世橋の竣工時頃の写真には見られる。そのため、この間の農工銀行「営業報告書」などの資料に目を通した。しかし、関係記事はなく、今後の建築学的な詳細な調査が必要であろうが、街角のさまざまなものに目を向けて地域の歴史探索の課題としていきたい。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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