トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 県外招かれ米作改良−「老農」古市与一郎

県外招かれ米作改良−「老農」古市与一郎


(写真)古市与一郎の碑 鈴鹿市十宮町

(写真)古市与一郎の碑 鈴鹿市十宮町


 県内各地で田植えが始まっている。今回、明治期に稲作改良で活躍した人物を紹介してみたい。県外の知人からの情報で得た資料に、1891(明治24)年8月12日付けで静岡県豊田郡富岡(とみおか)村(現在は磐田市)役場から鈴木浦八という農会世話人に宛てられた依頼文がある。内容は、三重県の老農(ろうのう)古市与一郎を招聘(しょうへい)して農談会を開催するので、聴聞の取り計らいを農会世話人に依頼する旨が書かれている。
 『鈴鹿市史』でも、古市与一郎が静岡・岐阜・福島各県から招かれて稲作改良の講話をしたことが記されている。また、鈴鹿市神戸(かんべ)にある県指定史跡「神戸の見付(みつけ)」から旧伊勢街道を500mほど北へ行った十宮(とみや)町に「老農古市与一郎」の碑が立っている。その碑文でも大日本農会や静岡・福島県に前後2回招かれたとある。91年の時は7〜8月にかけて静岡県の22箇所で講話をしたことが知られているが、今回、具体的な場所の一つが豊田郡井(い)通(どおり)村(現磐田市)の西之島学校であることがわかった。なお、老農とは、一定した概念はないが、篤農家・精農と呼ばれる中でも最も功労の多かった人々に対する一種の敬称として用いられる。82年には農商務省農務局が『府県老農名簿』を刊行し三重県下では15名が掲載されているが、与一郎の名は、まだ活躍以前だったのか、その名簿には登場していない。
 古市与一郎は、1828(文政11)年に十宮村に生まれ、江戸時代には庄屋を、明治になってからは戸長や副戸長を勤めている。しかし、1876年に職を辞し、家督を長男に譲って東京にあった農学者津田仙(アメリカへ留学した津田梅子の父)の農学舎に入学している。この時、すでに48歳である。50歳を過ぎて天文学・観測学を学び55歳から全国各地を測量して地図を作製した伊能忠敬をみても、志を立てるのに年齢は不問であると教えられる。その後、78年から神奈川県勧業課や三重県勧業課に勤め、82年に職を辞して地域の農事指導に専念している。静岡県へ講話に招かれる10年前のことである。やがて、地元を中心に農談会を開設したり、十宮村報徳社を作り毎月一回の談話を行っている。また、奄藝(あんげ)・河(かわ)曲(わ)郡や安濃郡の『農談会談話摘要録』などにも講話の記録がある。さらに、89年からは「与一流稲作法」を提唱し、深耕可能な「与一鍬」や田掘りマグワなどの農具の改良や肥料の改良を勧めたり、和洋折衷の作業服である「与一服」などを考案している。
  『明治24年三重県勧業年報』では、三重県の米の収穫量は105万石余であり、前3年間の平均収穫に比べ7万石余り、過去10ヶ年の平均に比べれば20万石余の増加という統計が出ている。実に10年間で25%増と飛躍的に生産量が増加している。その一翼を「与一流稲作法」が担っていたとも言える。
 与一郎は、97年三重県農会の総会で7名の評議員の一人として名を連ねるが、数ヶ月後に71歳で没している。翌年に静岡県周智郡森町の森下廣太郎により『与一流稲作法』という書物が発行され、『明治農書全集』にも復刻掲載されている。その内容は、静岡県見付町(現磐田市)の報徳学館で学んだ山口県出身の吉村清太郎が病床の与一郎から口述により伝習を受けたものであるらしい。講話が縁となって静岡県で出版物が発行され、出身地の一角にひっそりと立つ碑文が彼の業績を今日まで伝えている。

(県史編さんグループ 服部久士)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る