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侍著名人の自筆が続々―明治の県知事あての書簡から


成川尚義あて書簡

成川尚義あて書簡


 現在、県史編さんグループが保管している資料の中には、本欄の前々回に紹介した「西丸下上屋舗絵図」(にしのまるしたかみやしきえず)のように、全国的にも注目されるものがいくつか含まれている。
 そこで、今回は、1889(明治22)年〜1896年に三重県知事であった成川尚義あての書簡を紹介するが、その前に成川尚義の略歴を見てみよう。1841(天保12)年に上総(現千葉県)で生まれ、のち同じ上総の成川家の婿養子となる。幼少の頃から向学心が強く、家が貧しい中で昼耕夜学を旨としたという。また、幕末期には勝海舟の知遇も得て、1869年に若森県(現茨城県)が設置されると、大参事に任命された。これがスタートで、71年には若森県の廃止により新治県(同)権参事、72年新川県(現富山県)権参事、77年宮城県大書記官となり、80年内務少書記官を経て、81年には大蔵権大書記官に就任した。
 81年と言えば、松方正義が大蔵卿に就き、不換紙幣整理などの財政金融政策に着手した時である。やがて激しいデフレーションとなり多数の農民たちが困窮した、いわゆる松方デフレが起きた時期に、大蔵省の中枢部に在籍した。そして、89年12月に三重県知事として赴任し、96年8月までの7年にわたる年月を務めた。第2次大戦前の官選知事の大半が4年以下の任期であったのに比べ、異例に長い期間であった。なお、三重県知事を辞してからは中央に戻り、房総鉄道会社社長や貴族院議員などを歴任し、96年11月に没した。
  さて、書簡は、17通あって既に巻子(かんす)に仕上げられている。時期的には、前述した略歴のうち宮城県大書記官から三重県知事時代のもので、その差出人は、誰もが知っているような有名人が多い。
  巻子の冒頭から順に見ていくと、まずは「成川宮城県大書記官」あての松方正義の書簡が貼付されている。77年から80年の間のもので、大蔵省に入る前の松方との友好関係が知れる資料である。次の書簡は、78年3月19日付けもので、差出人は日本の郵便制度を確立した前島密(ひそか)である。「士族之向、銀行設立」に関する内容で、その頃、士族や地方の有力者が資本を出して国立銀行を続々と誕生させていた。三重県でも、同年に上野第八十三銀行、翌79年に津第百五銀行・亀山第百十五銀行・桑名百二十二銀行が開業されているが、創立に至る資金繰りなど、各地の事情を見る参考資料として貴重である。3番目から5番目の書簡は、元会津藩士の広沢安任(やすとう)からのものである。広沢は、戊辰戦争の際、藩主の無罪を訴えて獄に入れられたが、のち許され、旧藩士の救済を行うとともに原野を開拓し牧場を開いたことから、晩年は「牧老人」と呼ばれた人物である。書簡の時期は、83年1通、88年2通で、紙幣整理に関する意見や大蔵省の人事に関する内容である。
 このように、6番目以降の書簡についても著名な差出人が多い。簡単に紹介すると、「三菱財閥の祖」と言われる岩崎弥太郎、幕末の「長州征討」で長幕和解を斡旋し、のちに石川・宮城県知事も務める船越衛(まもる)、元薩摩藩士で大蔵省紙幣局長・印刷局長になった得能良介、元長州藩士で幕末の動乱を経て91年には松方内閣で内務大臣に就く品川弥二郎、82年に立憲改進党の結成に参加し、のち立憲国民党・政友会総裁となる犬養毅などである。
  そして、巻子の末尾には、元土佐藩士で89年〜96年に日本銀行総裁であった川田小一郎の書簡2通がある。特に、この2通は95年のもので、すなわち、三重県知事と日銀総裁との間のやりとりである。その文中の一部には、津第百五国立銀行の頭取・川喜田四郎兵衛が総裁を来訪したという記載が見られ、97年に普通銀行に転換する動きの中で、成川知事が重要な役割を果たしていたことがわかる。
 この書簡は、かつて名古屋市の古書店から入手したものであるが、県史編さん資料として貴重なだけでなく、幕末から明治前期にかけて活躍した有名な人物の自筆書簡が見られるという意味では、博物館や公文書館等の施設での展示公開にも有効な資料と言えよう。

(県史編さんグループ  吉村利男)

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