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10年で女子就学率倍増−明治の地域教育支えた私立教育会


第1回多気郡私立教育会通信

第1回多気郡私立教育会通信


 一昨年から多気郡大台町茂原(もばら)で県史編さんグループが実施している吉田家所蔵資料調査で、「第1回多気郡私立教育会通信」が見つかった。明治期の地域の教育を支えた私立教育会の状況が記載されている。
 この第1回教育会通信は、1888(明治21)年10月18日の発行である。内閣制度が創設され、小学校令などのいわゆる学校令が出された2年後にあたる。「三重県教育史」によると県内の教育会は、改正教育令の出された80年に官民による二つの教育会が設立されたのに始まる。その後、87年にそれまでの教育会の融合が図られ、個人会員による「三重私立教育会」に統合される。しかし、三重県学務課が89年に発行した「三重県第8学事年報」によると、組織が適切でなく著しき効果をあげていないとして、各郡教育会の連合体として再組織化されることになり、88年10月に「三重県私立教育会」が設立されたとある。その会則では、各郡教育会の独自の活動を保証しており、多気郡私立教育会もその組織の一つである。
 「通信」の冒頭で、多気郡私立教育会設立の経緯が書かれている。それによると、2回にわたり設立のための相談会が開かれている。多気郡の土居光華郡長も各小学校の財務整理のため教育会の組織化を計画しており、相談会では一つの教育会にすべきとの意見でまとまったが、郡長起草の会則の取扱をめぐって紛糾し、修正委員を選んでようやく会則を定めたとある。結局、多気郡私立教育会は、教育に係る財務を整理する会と教育会議・講演会・運動会・学事視察・貧困生への器械貸与・高等小学校生への就学寄宿料貸与・女子教育奨励などの教育の改良と普及のための活動をする会の二つの組織を含むものになった。発会式を兼ねた臨時総会が88年5月に行われ、公務で欠席した会長の土居光華郡長に代わり、郡書記の永島雪江が挙行したとある。この時の会員数は181名であり、会員は郡内に居住あるいは勤務する官吏・学校職員・神官・住職・その他有志・婦人等と規定され、会費は1か月5厘以上50銭以下であった。郡内の教育の普及と発展を目的とし、教育関係者以外も会員に含まれていることは、注目に値する。
 ところで、明治中頃以降の就学率をみると、先の「三重県第8学事年報」では、88年度の県の学齢児の就学率は平均で50%をわずかに上回った程度であり、多気郡では男子が約70%、女子が約32%、平均で52%という統計が出ている。今回の教育会通信では、多気郡内には、1つの高等小学校と12の尋常小学校、21の簡易科授業所が設置され、86名の教員と3,200名余の生徒がいたとある。
  多気郡の10年後の統計を「第18学事年報」からみると、98年度の小学校生は、男女合わせて4,500名余であり、約1・5倍に増えている。また、学齢児就学率は、男子88%に対し、女子64%であり、女子の就学率がほぼ倍増している。男女平均で76%である。ちなみに1908(明治41)年度の就学率は、男女とも95%を越えている。
 多気郡私立教育会通信では、各学校の状況や会の活動報告の記載がある。主なものを挙げると現明和町の大淀(おおよど)尋常小学校では、大祭日に近隣十数校の生徒の書画工作品などを陳列し一般公開している。また、女子の就学率を上げるために裁縫科を設置したり、青壮年のために斎宮・大淀をはじめ各地の小学校で夜学を開設したとの記事もある。茂原簡易科授業所では、夜学に21名の青壮年が就学し、茂原村の村長や学務委員を務めた吉田寛二が夜学のために石油を寄付したと記されている。このように、明治期の就学率上昇の背景には、地域をあげた支援や私立教育会の活動があったことを見逃すことができない。

(県史編さんグループ 服部久士)

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