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館屈指の肥料商に−北海道で事業展開した四日市商人


当時の田中武兵衛函館支店(「函館案内」口絵より)

当時の田中武兵衛函館支店(「函館案内」口絵より)


 三重県と北海道とのつながりは、本欄でも田本研三や利尻島や礼文島への海女の出稼ぎなどを紹介してきた。今回紹介する田中武兵衛(ぶへえ)は、四日市の実業家で、1880年代に函館に支店を設置し、一躍函館で名の知れた商人となった。1914(大正3)年刊行の「北海道人物辞書」にも、その名が登場している。
 田中家は、代々田中武兵衛の名を襲名した商家で、四日市浜町にあった。同家が商いをしていたことを示す最も古い史料は、1795(寛政7)年のもので、そこには「諸国廻船干鰯(ほしか)問屋 浜町 田中屋武兵衛」と見え、廻船問屋と肥料問屋を営んでいたことが分かる。先ほどの「人物辞書」によると、函館に出店した田中武兵衛は、1859(安政6)年生まれ。慶應義塾を卒業後、政治に奔走し、三重県会議員や四日市参事会員も務めたという。また84年(明治17)の濃勢鉄道布設や89年の四日市港埋立て工事の請願、93年の四日市商業会議所の設立にも携わっている。このように、田中武兵衛は四日市政財界のリードオフマンの一人であった。
 田中武兵衛は、四日市では87年までに浜町の本店以外に蔵町に支店を設け、函館支店を88年に設立しているものの、その詳細な商業活動については、県内では史料も少なく、ほとんど分かっていなかった。
 ところが、愛知県常滑市の船持(ふなもち)瀧田家の史料中に、田中家との多くの取引書類が残っていた。これを調査していくと、次第に田中家の業態が明らかになってきた。取扱品目として、四日市に入ってくる品は肥料(〆粕(しめかす)・鯡粕(にしんかす)・種粕(たねかす))、大豆、小麦が多く、出でいく品は米や酒、茶、菜種油であった。いずれも四日市港の主要輸出入品であり、多額の収益があったと考えられる。
やがて1980年になって四日市港・鉄道などのインフラ整備が進むと、これまで東京や大阪・兵庫の肥料問屋を経由して仕入れた鯡肥料を直接主要産地である北海道から大量仕入するようにもなった。ちなみに、86年9月22日付けの「伊勢新聞」によれば、伊勢丸(日本郵船会社籍)によって小樽から四日市港にもたらされた鯡粕1万3千本の荷揚げは夜を徹して行われ、うち7千本が田中武兵衛の発注品であったと報じている。
 武兵衛は、さらに安定的な集荷の拠点を築くために、88年7月には函館区大町(おおまち)に田中出張店を開業した。店は94年までに隣町の末広(すえひろ)町(ちょう)に移転し、店名も田中武兵衛支店(田(た)武(ぶ)支店)と改めた。店は堅実な商いを行い、地元の信用を得て函館でも指折りの肥料店となった。1901年、函館工業館発行の「函館案内」は、当時の店の賑わいぶりを詳しく記載しているが、その繁忙な様子は驚きであったらしい。
 また、北海道庁発行の「殖民公報」第63号では、1910年に函館港から四日市港に向けられた海産肥料は、鯡粕を中心に総額126万4千円強にのぼるという。これは東京港に次ぐ多さで、この荷を主に取り扱ったのは、田中武兵衛支店であった可能性は高い。
 田中武兵衛の函館支店が大量の鯡肥料を集荷できた理由には、武兵衛のサハリン(樺太)漁業への直接参入にあった。同じく「殖民公報」では、函館の鯡肥料9割はサハリン生産のものであると記すが、田中武兵衛も96(明治29)年からサハリン南部のアニワ湾や西海岸に漁場を獲得し、多い時には水夫・漁夫200人を雇い入れて出漁していた。
 今回、日本福祉大学知多半島総合研究所や函館市史編さん室から情報を得て、田中武兵衛商店の一端をここに紹介した。しかし、これまでの県内歴史書などではほとんど触れられていないことを考えると、もっと広く三重県関係史料の情報集積を行う必要性を痛感するのである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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