トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 「西欧」「在来」迫狭間で苦悩―明治初期 新農法普及に尽力 樋口弥門

「西欧」「在来」迫狭間で苦悩―明治初期 新農法普及に尽力 樋口弥門


樋口弥門編集・発行の「暦日略解 種まき鑑」

樋口弥門編集・発行の「暦日略解 種まき鑑」


 明治維新期、欧化政策の動きは農業においても顕著であったが、我が国に西欧の農法を最初に紹介した人物は津田仙(津田英学塾創始者・津田梅子の父)と言われる。彼は、1873(明治6)年ウィーンで開催された万国博覧会に行き、オーストリアの有名な農学者から農法を伝授されて帰国した。その内容を記したのが「農業三事」で、中でも作物の受粉を進める媒助法が特徴であった。
  明治新政府は、津田仙が書いた「農業三事」を地方に配布して西欧の農法を広めようとした。三重県では74年に各大区あてに頒布し、度会県でも75年に媒助法の奨励を図った。しかし、実際にこれらが即座に受け入れられることはなかった。そのため、三重県では76年9月に再度布達を出して、一般施行されることを期した。
  その布達の中に、指導者として第八大区四ノ小区片田村(現・津市)の樋口弥門の名前が見える。弥門は75年に東京に出向き、津田仙の門下に入って媒助法を習ってきた。また、実験も行い、自費で「農業三事」を購入して各小区にも配布した。弥門は熱心に新しい農法の普及に努めていたわけで、県庁も期待して「弥門ニ就キ詳細伝習ヲ受クヘシ」と布達したのである。ただ、この媒助法は結果的に無益で、まもなく政府も奨励を止める。その際にも弥門は政府に無益の証明を求め、周知に奔走したという。
  このように、弥門は明治初期の県内農業界で大きな役割を担っていたが、既刊の「片田村史」や「津市史」には全く取り上げられていない。「三重県史」資料編でも前述の布達などは掲載しているものの、詳しい記述はない。
  そこで、樋口弥門に関する資料を調べてみた。順を追って幾つか紹介してみよう。
  まずは79年6月に弥門が編集・発行した全37丁の木版本「暦日略解 種まき鑑(かがみ)」がある。年内の大祭日と種蒔きや挿し木などの時期を表記したもので、弥門は序文に「聊(いささ)開化の一助となりて物産繁殖の基とならば則(すなわち)幸なり」と、その目的を述べている。なお、この本の刊記(奥付)では弥門の居住地が「東京府小石川新諏訪町拾五番地寄留」と見られ、常に上京して新しい農事情報を吸収していた弥門の姿をうかがうことができる。
  次に弥門の活躍を知る資料としては、81年の「農談会日誌」がある。農談会は3月11日に東京浅草東本願寺で開かれ、全国から約120名の会員が集まった。三重県からは、樋口弥門のほか、津魚町の岡嘉平治など3人が出席し、穀物精選方法・種子改良・肥料製造などの農事について意見交換がなされた。その談話会での弥門の発言は他を凌駕し、主に肥料に関して多方面から意見を述べている なお、この時の弥門の居住地は安濃郡刑部村(現・津市)で、片田村を離れていたようである。
また、81年には大日本農会が設立され、8月に機関誌「大日本農会報告」が創刊となり、その創刊号に弥門は「三重県伊勢国安濃郡内農況」の原稿を送っている。内容は菜種の刈入れ・綿の蒔付け・稲田植付け・茶の刈取りなどについての状況であった。また、同年東京上野で開催された第2回内国勧業博覧会にも、鈴鹿地域の米「須賀一本」を出品している。
  そして、翌82年6月には「府県老農名簿」が刊行され、三重県で15名の老農の一員として弥門も掲げられた。老農とは、農事に長(た)けた識見豊かな農民出身の技術指導者で、「古農」・「功農」などとも呼ばれ、江戸時代の中頃から登場した。特に、明治政府が西欧  農法の導入に失敗すると、老農のもつ伝統的な農事知識が重視されたという。
  弥門は、以上のように西欧農法の奨励と在来農法の狭間で悩みながら、三重県の農業をリードしていった。そして、83年5月には大日本農会三重支会が設置され、弥門も幹事の一員となるが、支会は翌84年10月に解散してしまい、それ以後の動向を知る資料は全く見当たらなかった。生没年も含めて分からないことが多く、今後の関係資料発見を待ちたい。

(県史編さんグループ 吉村利男)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る