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藩への不信感が爆発−文政六年助成講一揆について



 以前、「発見!三重の歴史」で、1823(文政6)年の桑名藩の転封(てんぽう)のことを取り上げ、その中で情報伝達の速さや家中の慌ただしさとは裏腹に村方では、そのことを冷静に受け止めていたことを紹介した。
しかし、一方では、この年に助成講(じょせいこう)という積立金割り戻しに関する百姓一揆が勃発し、庄屋宅が打ちこわしにあうなど大変な騒ぎとなっていたところもあったのである。そこで、助成講一揆の中心地域であった員弁郡の村落に残る史料からその様相を見てみたい。
  そもそも助成講とは、領主の賄いの補助として1813(文化10)年から始まり、村の庄屋を中心として掛け金を積み立て、それを元手に講の加入者に貸し付けを行うもので、いわゆる相互扶助制度のことである。
23年、領主奥平松平氏が武蔵国忍(おし)(現埼玉県)への転封を幕府から仰せ付けられる。この時、講の加入者は領主交代により掛け金が戻らなくなることを心配し、掛け金を割り戻してほしい旨を藩に訴えた。当時、積立金の一部を藩役人が横領し、しかも庄屋と藩役人が結託しているとの噂が広がっていたからである。これに対し、藩では相談を重ね、割戻金を上乗せして、8月9日に返却の処置を行う予定をしたのである。
  こうした中、8月3日には石榑(いしぐれ)村・丹生川村(現いなべ市)の農民が大勢桑名城下に押し寄せるという騒動が起こり、その後、村々で騒ぎ立てるような事件が起きた。さらに、7日には庄屋宅を打ちこわすという騒動が勃発し、一揆勢は「一揆に参加しない村方は残らず打ちこわす」と触れながら打ちこわしを行ったため、一揆は拡大していった。7日夕方には阿下喜村・鼓村・田辺村・二之瀬村(現いなべ市)の庄屋宅を、8日の夕方には川原村(現いなべ市)の庄屋宅を襲撃している。川原村の庄屋宅では本家・隠居屋敷・物置・雪隠・灰屋、そのほか植木類に至るまで打ちこわしの対象となり、本家や隠居屋敷は倒されなかったものの、柱を切られ、天井板を打ち破られた。物置は天井が剥がされ柱が切られた。雪隠・灰屋は倒され、なんとも悲惨な光景であった。その後も、一揆勢は桑名郡や朝明郡に分かれて、下深谷部村・糠田村(現桑名市)や縄生村(現朝日町)あたりの庄屋宅を打ちこわしに行った。
  その間、藩役人も手分けして一揆の鎮圧に当たった。8月7日付けで村方に対して騒がしくしないようにとの触を出したり、「百姓の体(てい)に致し、入込ませ段々主意相尋候(あいたずねそうろう)」と藩役人を農民に格好にさせて農村に入り込ませ、一揆の理由を探らせたりしている。10日には笠松(現岐阜県笠松町)から幕府役人が領内に入り、農民の願書の受け入れなどもあって、ようやく騒ぎは収まった。
  一揆鎮圧後の13日以降、幕府役人と藩代官の廻村があり、農民の願いや庄屋宅の被害状況などの取り調べが行われた。さらに、9月の転封前まで村々で壊された家の見分や講金割方についての触の通達、農民への申し聞かせ、藩役人の処分等が行われ、転封後には、一揆の張本人とされた3人をはじめ一揆に関係した農民が処罰された。
そして、11月29日には講金の割り戻しがなされ、本家を壊された庄屋などへの見舞金も渡され、川原村庄屋の場合は12月25日に10両を受け取っている。
  この一揆について、藩側の史料によると、一揆は生活の苦しさから起こったものではなく、一部の農民が意図的に仕組んだものであったという。しかも、当初は仁政(じんせい)を施している、すなわち人民の立場を思いやっているので騒動が起こるはずはないとの認識をしていたことが書き記されている。こうした藩側の傲慢な意識が大きな騒動につながったのである。やはり、もっと藩内を見渡して民意を知る努力が必要であった。

(県史編さんグループ 藤谷彰)

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