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石造物保存に熱い思い−寛政の一揆


寛政の一揆」関係者の墓碑と供養塔(向かって右から供養塔・森宗左衛門墓碑・森彦兵衛墓碑)

寛政の一揆」関係者の墓碑と供養塔(向かって右から供養塔・森宗左衛門墓碑・森彦兵衛墓碑)


 石碑などの石造物は、地域の歴史を知る資料として有効である。旧白山町教育委員会では2001(平成13)年から町内に所在する石造物の悉皆調査を実施し、既に報告書として『はくさんの石造物(八ツ山地区編)』・『同(家城地区編)』を刊行した。市町村合併で津市となった今も事業は継続され、川口地区の調査が順次進んでいるが、川口地区には「寛政の一揆」に関して注目される石造物がある。
「寛政の一揆」とは、1796(寛政8)年12月26日〜29日に起こった津藩の大一揆のことで、一志郡の南西山間部(現津市白山町や榊原町)の農民たちが蜂起し、安濃・奄芸郡(現津市美里町・安濃町・芸濃町など)の農民も集結した。参加総数は3万人と言われ、近世期の三重県域では最大の一揆であった。一揆の原因は津藩の諸改革にあり、菓木の植え付け、常廻目付設置、均田政策などを強行し、藩の財政を立て直そうとした。特に均田政策は、津藩伊勢領293か村のうち年貢納入不足の38か村の田畑を平均して分配し直すというもので、今まで苦労して田地を手に入れた農民たちが強く反対した。
この一揆の経緯や状況は、多くの歴史書に紹介されているので、ここでは詳述しないが、最終的に農民側の要求が受け入れられ、藩の諸改革は中止となった。また、一揆に参加した多くの農民に処罰はなかったが、一揆の中心者20人ほどが処罰の対象となり、首謀者3人は2年後の寛政10年12月19日に安濃川河原で斬首の刑に処せられた。八対野村(白山町)の多気藤七郎・谷杣村(榊原町)の町井友之丞・川口村の森宗左衛門であり、いずれも各村の庄屋を務めていた。
そのうち、森宗左衛門の墓碑が川口の善性寺境内にあり、今回紹介する。写真の右から2番目が宗左衛門の墓碑で、正面に宗左衛門夫妻の戒名が刻まれ、右側面には「寛政十戊午十二月十九日」とあり、処刑日と符合する。裏面には「七世 森宗左衛門種美」と彫られている。諱(いみな)(実名)の「種美」は、墓石が摩滅し肉眼では読めなかったが、拓本によって明らかになった。これまでの関連資料では宗左衛門の諱を記したものはなく、ささやかな「発見」である。また、3番目の父・彦兵衛の墓碑も同様、裏面に「六世 彦兵衛種英」とあり、「種」が森家の代々の通字(とおりじ)であったらしい。右側面には「寛政十一己未年九月九日」と死去年月日が刻まれている。「彦兵衛が処刑前に獄死」という記述の歴史書も見られるが、彦兵衛は斬首刑でなく「永牢」で、息子よりも命を長らえた。しかし、翌年の秋には死去してしまった。この死去日も墓碑の調査で初めて明らかになった。
次に、右端の供養塔は、笠塔婆と言われる種類で、石柱の断面が三角形をした珍しいものである。正面には「南無阿弥陀仏」、裏面左側面に「□□十午歳極月十九日」とある。年号は石材風化のため欠けているが、宗左衛門の処刑日で、彼の供養のために建てられたことは明白である。そして、裏面右側面に「願主 智明軒恵光」と見られ、「智明院」という院号をもった当時の善性寺住職が建立したものではないかと判断された。
こうした石造物の調査を経て2001年3月に町文化財(史跡)に指定されたが、前年には風化の激しかった供養塔について補修や樹脂注入が行われ、覆屋も設置された。経費は地元篤志者の寄付であり、その思いは、1913(大正2)年に町井友之丞の出身地、榊原村谷杣の海泉寺に首謀者3人の名前を刻んだ顕彰碑を地元青年会が建立したことに通じる。このように「寛政の一揆」の首謀者たちは後に「義民」・「世直し明神」として讃えられ、それは今も地域に生きている。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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