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「目上を敬愛」「倹約」―菰野藩村方への触書


「天明七年仰せ出され御書附写」(重盛家文書)

「天明七年仰せ出され御書附写」(重盛家文書)


 以前、この欄で天保期(1830〜44年)に起こった飢饉への菰野藩の対応を藩主や藩士の日記を用いながら紹介したが(26)、今回は1787(天明7)年に菰野藩が村方へ出した触書を紹介してみよう。
  天明期(1781〜88年)と言えば、享保期(1716〜35年)・天保期と並んで、江戸時代の三大飢饉が起こった時期である。幕府をはじめ諸藩も対応に追われ、特に東北地方では多くの餓死者が出たことが知られている。
菰野藩でも、やはり飢饉の対応に苦慮していたと考えられるが、この時期の藩からの触書としては、1941(昭和16)年に編纂刊行された『菰野町史』に、86年に東町対して出した「申渡」が収録されている。内容的には、空き家をつくらないことや古くからの商人保護を命じていることなどで、直接飢饉対策ではないかもしれないが、当時の町方への対応がわかる。しかし、村方への対応は不明であった。
  ところが、現在、県史編さんグループが資料調査を行っている菰野町の旧家で、天明期に村方へ出された触書の写が発見された。少しではあるものの、これで天明期の菰野藩の村方への対応が明らかになった。
この触書は、87年7月に出されたものである。内容を書き上げると、1.目上の者を敬愛すること、2.風儀を糺(ただ)すこと、3.百姓に似合わざることをしないこと、4.村方の倹約をすること、5.男女の衣服は木綿を着用すること、6.往還道・橋や耕作道の修理をすること、7.家中諸士へ無礼をしないこと、8.召使い等を領分内から召し抱えること、9.火の用心に気を付けること、10.怪しく疑わしい者を見掛けたら申し出ること、11.竹木や土芝等を取らないこと、12.他領へ対して非道をしないこと、13.領内での勧進芝居・相撲をしないこと、14.若輩者への対応をすること、15.庄屋が身上不相応者へ適切な対応をすること、16.音信贈答に無益な費用を使わないこと、17.仏事・神事を華麗にしないこと、18.博奕を禁止すること、19.人倫を乱さないこと、20.鳥類を鉄砲で殺生しないこと、21.庄屋は村の手本であること、22.村役人の申し付けに背かないこと、の22箇条から成り立っている。
 この触書の後書(あとがき)には、「右の条々、追々仰せ出され候事ともこれあり候へとも、年月を経候(へそうろう)事故(ことゆえ)、心得違候族(こころえちがいそうろうやから)もこれあるべくにつき、このたび又候(またぞろ)仰せ出され候」とあり、このような触書は度々出されていたことがうかがえる。
  そして、50年経った1837(天保8)年、すなわち天保期の飢饉の際にも同様の触書が出されているのである。比較してみると、条目数は異なるが、文言等はほぼ同一である。
このように、文言が固定化されていることから、この条目が度々出された触書の原形であり、菰野藩の根本法令であった可能性も推測される。
  また、この触書で注目されることは、条目の頭に「読」という文字が注記されていたり、「合点」と言われる確認したという印が見られることである。「読」という頭注がある条目は、1〜3、6〜12、14、22の12条目で、「教え諭す」など、村民一人ひとりに直接関係のあるものが多い。合点は、5・6・9の但し書、15・16・21の6条目と後書にあり、村役人としての心得的な条目に多い。重複は6条目の往還道等修理に関することである。
  この頭注と合点には、意味の相違があったと推測されるが、この触書だけからの判断は難しい。おそらく、村民に読み聞かせるために必要な条目だけに「読」を注記したのか、読み聞かせた後の覚えかであろう。いずれにしても、このような触書の読み聞かせの実態のわかるものは県内でも非常に少なく、その点でもきわめて貴重な資料と言えるものである。
  なお、この簿冊には、87年の触書以外にも、同年の「追々仰せ付けられ候趣」、1789(寛政元)年・1800年の仰せ渡しや1797年の倹約定も書き留められている。このことから、菰野藩では天明期から天保期までに矢継ぎ早に触書が出され、飢饉等への対応を行ったことがわかる。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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