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見積もり合わせの結果−美濃田の大仏 紀州の鋳物師が造る


真楽寺の銅造阿弥陀如来坐像

真楽寺の銅造阿弥陀如来坐像

造銘

造銘


 松阪市美濃田(みのだ)町の真楽寺には、銅造の阿弥陀如来坐像が伝来している。しかも、その大きさが3メートルという県下でも屈指の巨像で、近在では「美濃田の大仏」として広く知られている。制作は江戸時代で、1737(元文2)年頃と考えられている。
  両手を膝の上に乗せ、腹前で定印を結ぶ一般的な姿の阿弥陀像である。もとは隣接する敏(みぬ)太(だ)神社(通称八幡さん)の本地仏として、真楽寺の三世静室が地元の中川清左衛門と志を合わせて造立したもので、真楽寺の塔頭(たっちゅう)長楽寺に安置された。しかし、明治初期の廃仏毀釈によって長楽寺が廃寺、大仏は真楽寺に移される。1876(明治9)年には台座が新造されて現位置に移され、現在に至っている。
 真楽寺には、大仏造立に係る史料が伝来しており、いくつかが『一志郡史』下巻に紹介されている。それらによると、大仏造立の金を集めるため、近くの市場庄村(現松阪市市場庄町)を通る参宮街道沿いに小屋懸けし、大仏と同じ大きさの絵像を掛けて、通行人から寄付を募りたいと上申している。どうやら、資金調達に対する苦慮があったらしい。
  また、像の銘文から、作者は紀州粉河(現和歌山県紀ノ川市)住の蜂屋平右衛門正勝という鋳物師(いもじ)であることが判明する。『和歌山県史』近世史料三に、1838(天保9)年の「蜂屋由緒書写」が掲載されているが、これを書いた蜂屋光三郎が代々正勝を名乗っており注目される。古くは東大寺の大仏鋳造や弘法大師の仏器鋳造に携わったとし、1631(寛永3)年には火術御用を仰せ付けられて帯刀も許可されたと記しているなど、鋳物師としての古くからの由緒を強調している。
  ところで、現代の私たちから見ても、紀州の粉河というと美濃田からはずいぶん離れた所というイメージがある。そのような鋳物師になぜ大仏の鋳造を依頼したのだろうか。
 伊勢国を代表する鋳物師に、津を中心に活躍した辻氏がいる。梵鐘を中心にして、今も県内に多くの作品が残されているが、津市天然寺や大門・観音寺には銅造の仏像も残されている。特に観音寺の阿弥陀如来立像は、高さ約160センチメートルで、決して小さな像とは言えない。鋳物師としての実力ならば、少なくとも見劣りするわけではない。同じ伊勢国の、しかもすぐ近くに著名な鋳物師がいるのに、なぜわざわざ紀州の鋳物師に依頼しているのか興味を引く。
  実は、真楽寺には辻氏からの書状も残されていて、内容を見ると、制作費が蜂屋に比べて高いのである。このほかにも、いくつかのところからいわゆる見積書を取っている。現代で言うところの見積り合わせを行い、その結果、制作費が安く、また実績もあった蜂屋平右衛門に発注することになったようである。
  もちろん、蜂屋の住む粉河村と美濃田村は、同じ紀州藩領であり、以前より何らかのつながりはあったのかもしれない。文書には、美濃田から粉河へ出向いて打合せをしている様子もわかり、また、大仏の頭部は紀州で特に入念に造って当地に運んでいる。おそらく、その方が、作業の上からもうまくいったのであろう。私たちが考えるよりも、往来は盛んであったと言えそうである。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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